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執筆者の写真Nobukazu Tajika

科学と思想について

更新日:7月22日


◼︎PHOTOGRAPH BY ESA/HUBBLE & NASA AND N. GORIN (STSCI)



 科学とは物と物との

 関係を明らかにする学問


 私はこれまで、科学と思想、その両方にまたがる取材や思索活動を、自分なりに続けてきました。多くの科学者たちや、日本を代表する独創的な思想家への取材を通し、また書物や文献などを読み込むことによって、思索活動を続けてきました。

 科学とは、ラテン語で知識を意味する「scientia」に由来する「science」の訳語です。明治時代の啓蒙思想家であり、日本近代哲学の祖ともいわれる「西周(にしあまね」(1829年〜1897年)によってつくられた訳語です。

 今さら、私が改めて申し上げるまでもなく、現代社会に科学は不可欠です。というよりも、現代社会を、支配し、席巻(せっけん)しているのものこそ、科学であるといってよいでしょう。

 ロケットを月や火星にまで飛ばしたり、ロケットで太陽や太陽系全体の探査をしたり、はるか宇宙のことを知りえたりする、といったことができるのも科学のおかげです。新幹線ですばやく遠隔地に移動できたり、飛行機で国内外どこへでも行けたりします。

 もっと身近の話をしますと、4Kテレビや8Kテレビを楽しんだり、スマートフォンで世界中のインターネットの情報をえたり、国内外を問わず、離れている者同士、瞬時に会話できたりします。部屋の照明、エアコン、冷蔵庫、マイカーによる移動、などなど。数え上げれば、枚挙にいとまがありません。私たちは、現代生活を、まさに満喫(まんきつ)しています。これらは、すべて科学のおかげです。

 科学のおかげで、私たちはまことに便利な生活が送れています。科学抜きで現代社会はありえません。現代人にとって、これほど便利で、有用な、実用性に富んだ道具はありません。ですから、私たちは科学を大事にして、尊重しなければなりません。

 しかし、科学とは、そもそもどういう学問なのでしょうか? これを語るには、原理的な考察が必要です。科学——とりわけ自然科学は、物質の解明に向かいます。自然界の現象を解き明かそうとします。そして、これまで、大きな成果を上げてきました。

 相対性理論によってニュートンの古典力学を180度変革し、時代を画する発見をしたドイツ生まれの理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879年〜1955年)。そのアインシュタインには、「E=mc²」という有名な方程式があります。

 Eはエネルギー、m は物質の質量、c は光の速度です。この方程式が意味するのは、エネルギーは、物質の質量と光の速度の二乗の積に等しい、それは等価だということです。物質は条件次第でエネルギーに変換される、ということをこの方程式は物語っています。例えば、恐ろしい話になってしまいますが、原子爆弾はそのことを端的に示しています。

 科学というのは、物資と物質の関係を明らかにしていく学問です。ある条件下では、物質と物質の関係はどう変化するのか? 数学を用いて、数式を使って、その関係を記述するというのが科学の方法であり、また、科学が目指す方向なのです。

 この方法により、科学——とりわけ自然科学は、これまで、大きな成果を上げてきました。


 科学は「物自体」には踏み込めない


 しかし、物質と物質の関係は明らかにしても、そもそも物質とは何か、という根本的、根源的問題には踏み込まない、踏み込めえない、というのが科学の現状なのです。永遠ともいえる、科学の課題なのです。

 それは、科学の「可能性」を示すと同時に、科学の「不可能性」「科学の限界」ということをも示しています。

 ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724年〜1804年)が、その主著『純粋理性批判』の中で考察したのが、まさにこのことです。カントは、『純粋理性批判』の中で、「人間の理性はどこまで到達しうるか?」という疑問を、先ず、立てます。

「理性」とは、物事の道理を考える能力、道理に従って判断したり、行動したりする能力のことです。英語の「reason」、ドイツ語の「Vemunft」の訳語です。ちなみに、ついでに申しておきますと、英語の「philosophy」という言葉を、「哲学」という言葉に翻訳したのも西周です。

 ところで、哲学では、「理性」と区別する意味で、「悟性 (ごせい)」という言葉も使います。「悟性」は、英語の「Understanding」、ドイツ語の「Verstand」の訳語です。これも、西周による訳語です。日本では、元来、禅の用語でした。「悟性」は、「知性」や「理解力」と同義の言葉として使われています。

「理性」も「悟性」も、共に、人間の思考能力、思惟(しい)能力です。「理性」は、道理にもとづく判断能力、「悟性」は論理的思考に基づく判断能力、といってよいでしょう。「悟性」とは、端的にいえば、「知性」、さらに科学ということを念頭に置いていえば、「分析的知性」のことである、ともいえます。

 カントによれば、人間には3つの能力が備わっています。「感性」「悟性」「理性」の3つの能力です。「感性」というのは、視覚、聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚など、いわゆる五感のことです。私たちは、これらの五感によって、外部の環境世界、外部のデータを取り込んでいるわけです。この能力がなければ、そもそも何も始まりません。

 カントは、「理性」というものについて、また、「悟性」というものについて、考察を進めていきます。そして、人間の「理性」、人間の「認識」の「可能性」と「不可能性」を探っていきます。「限界」を探ります。先ず、「可能性」から考察を始め、次に「不可能性」について考察していきます。登山する際、同じ山を、表口と裏口から登るようなものです。

 そして、こういう結論に達します。人間の「理性」、人間の「認識」は、現象については、つまり物と物との関係については、これを明らかにすることはできるが、物の内部、「物自体」にはけっして踏み込めない、と。

 物とはそもそも何か? 人間の「理性」、人間の「認識」は、「物自体」を明らかにすることはできない、というのがカントの結論です。「形而上学(けいじじょうがく)の不可能性」を、カントは指摘したわけです。

 ちなみに、形而上学とは、哲学用語です。事物や現象の本質、あるいは、存在の根本原理を、思考、思惟などで探究する学問のことです。

 これを、科学という観点から見れば、「悟性」にもとづくとされる科学もまた、「物自体」には踏み込めない、ということになります。科学が明らかにしているのは、あくまで現象についてだけであり——つまり、物と物との関係についてだけであり、「物自体」には踏み込めない、ということになります。カントの考察は、緻密で、この哲学の天才が導いた結論は、実に重大で、深刻です。

 ちなみに、余談になりますが、私は20代前半の頃に、東京の神田の古本屋街の古書店で、棚に眠っていたカント全集を見つけ、即、購入しました。当時の金額で5万円以上だったと記憶しています。私にとっては、金額的にも決断を要する思い切った買い物でした。なかなか売れずに眠っていたカントの全集本が売れたということで、店主は、ずいぶんと喜んでいましたが。

 ただし、カントの全集本を読みこなすというのは、大変、骨の折れる作業です。ですから、この記事を読んでおられる方には、せめて、カントの代表的な著作である『純粋理性批判』だけでも、お読みになられることを、お勧(すす)めしたいと思います。まだ読んでおられないのでしたら、ぜひ、お読みになられることを、お勧めします。極上の “ 思考訓練 ” になることだけは間違いありません。


 ベルグソンの「直観」は

 科学の限界を超える


 さて、科学の「可能性」と「不可能性」ということに話を戻しましょう。カントが断じたように、物の内部、「物自体」に入り込めないというのは、やはり、人間の「理性」、すなわち、人間の「思考能力」「思惟(しい)能力」の「限界」なのでしょうか?

 カントの考察に従えば、残念ながらそうなってしまいます。どうしても、人間の「思考能力」「思惟能力」は、「形而上学(けいじじょうがく)の不可能性」という「壁」にぶちあたってしまう、ということになってしまいます。

「悟性」の証(あかし)にほかならない人間の科学もまた、この「壁」にぶちあたらざるをえません。科学の「不可能性」、科学の「限界」という「壁」です。

 しかし、新たな天才が出現しました。フランスの哲学者アンリ・ベルグソン(1859年〜1941年)です。ベルグソンによれば、それは可能なのです。カントが「不可能」と断じたことも、ある人間の「能力」を使えば、「可能」になる、というのです。

 もちろん、科学が依拠している「悟性」だけでは足りません。人間には、別の能力、すなわち、「直観」がある、ということをベルグソンは指摘します。

「悟性」に加えて、「直観」を用いることで、「物自体」に逹することができる、とベルグソンはいうのです。その2つの能力を巧みに組み合わせ、連動して用いることによって、つまり、人間の持つ脳力を「全的」に使うことによって、それは可能になる、というのがベルグソンの考え方です。

 ベルグソンによれば、「直観」とは内部を光線のように見通す力です。ベルグソンの用語を用いれば、「生命の根源的躍動(élan vital)」から出てきた、私たち人間が持っている本来の力です。

 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925年〜1995年)はその著『ベルクソンの哲学』(法政大学出版局 宇波彰訳 1974年初版発行)の中で、ベルグソンの「直観」について、こう述べています。

「直観はベルグソンの哲学の方法である。直観は感情・霊感・混乱した共感ではなく、苦心して作られたひとつの方法であり、彼の哲学の方法のなかで、最も入念に作られたもののひとつである。直観には、その厳密な規則があり、それが、ベルグソンによって、哲学における<明確さ>と呼ばれるものを構成している」、と。

 私たちがよく口にする「直感」という言葉とは全然違い、ベルグソン哲学において「直観」とは、最も入念に作られた「哲学の方法」であるという指摘は重要です。ベルグソン哲学ついては、改めて、別の記事で再考していきたいと思います。

 さて、ベルグソンによれば、この「直観」を用いれば、人間は、「悟性」、つまり「知性」だけでは、けっして、辿(たど)り着けないものに、辿り着くことができます。

 本当でしょうか? でも、このことは、優れた芸術家たちが、これまで残してきた優れた芸術作品を見れば、よく理解されるのではないでしょうか?

 例えば、モーツァルト。モーツァルトの音楽を聴けば、まさに、天衣無縫(てんいむほう)、誰しも、“ 天才の作品 ” だと実感されるはずです。モーツァルトという天才によって創造された世界、それは “ 新たな宇宙 ” である 、と呼べるほど、驚嘆すべきものです。

「悟性」にもとづく科学の産物とは、明らかに一線を画す、「直観」にもとづく「創造」の産物にほかならない、ともいえます。

 モーツァルトによれば、音楽づくりにあたっては、「一幅の絵を見るように、音楽が出現する」そうです。ですから、それは、けっして、悟性にもとづく科学的な「分析的知性」によって、もたらされた産物などではないでしょう。

 一つ一つの「部分」を積み上げてできるような、“ 積み上げ方式 ” によってもたらされたような「全体」ではありません。「全体」が、「直観」によって、まさに、一挙に出現しているのです。


 因果関係を崩壊させる量子力学


「創造」ということを考えると、科学では、常に重要視される「因果関係」ということが、この「創造」という場面では、通用しない、ということがわかります。

 科学でいう「因果関係」とは、過去の状態を知れば、現在や未来の状態がわかる関係のことです。つまり、原因がわかれば、結果がわかる、ということです。科学は、数式を用いて、原因から結果を導きます。月食や日食が、将来、何月何日何時何分に起きる、ということを科学は正確に予測します。

 しかし、予測できるということは、どういうことでしょうか? 原因から結果に至る過程で、何一つ新しいことが起こらない、つまり、途中では、何も「創造」されない、ということを前提としている、ということではないでしょうか。そうした前提が成り立ってこそ、初めて予測が可能となる、ということではないでしょうか。

 もっとも、一概に科学といっても、現代科学、なかんずく現代の量子力学では、すでに、そうではなくなっています。ニュートンの古典力学と違い、単純な因果関係は、すでに成り立たなくなっているのです。

 量子(粒子)のふるまいは、人間の観察という行為が加わると、つまり、人間の意識がそこに加わると、それに伴い、変化してしまいます。ですから、量子(粒子)の客観的なふるまいなどというものが、そもそもあるのかどうか? 

 因果関係は、客観的な観測ができる、客観的な記述ができる、という前提に立っています。しかし、量子力学は、この素朴な前提を否定しました。量子(粒子)の客観的ふるまいなど、そもそも観察できないし、記述することなどもできない、ということを明らかにしたのです。

 量子力学では、量子のふるまいは確率的にしかわかりません。常に、そこには「偶然性」が入り込んできます。現代科学の先端をいく量子力学が明らかにしたのは、因果関係では解き明かせない「偶然性」ということの重要さです。

「神はサイコロを振りたまわず」といって、量子力学が提示する世界観に、強く反発したかの偉大なアインシュタインのことが思い出されます。神の存在を前提にした予定調和的な世界を思い描いていたアインシュタイン。また、美的感覚に人一倍優れたアインシュタインが、量子力学に不完全性を見たのは、ある意味、当然でした。

 しかし、アインシュタインが考えた方向とは逆に、量子力学は現代科学の潮流となっていきましたし、現在も、そうなっています。量子力学を抜きには、現代科学を語ることさえできません。

 量子力学の出現によって、主観、客観という単純な二分法も、もはや通用しなくなりました。客観とは何か? それも、よくわからなくなってきているのです。客観的な存在だったはずの物質。それも、実は、よくわからなくなってきているのです。その意味で、現代科学も、実は、激しく揺れ動いているのです。


 “ 創造 ” は因果関係からの解放


 先に触れたモーツァルト。モーツァルトがやってのけたことは、これまでの科学が前提としてきた因果関係、その 因果関係からの解放、因果関係の破壊 にほかならない、という言い方もできるかもしれません。過去や現在の状態を知っても、未来はけっして予測できないということを、モーツァルトは易々(やすやす)と実現してみせたのです。まさしく、これこそが 「創造 」です。

 モーツァルトの作品に限らず、優れた芸術家の作品は、押し並べて、創造の産物にほかなりません。モネの驚くべき絵にしても、純粋視覚を追究し続けた天才の紛(まぎ)れもない創造の産物といえるでしょう。私が東北大学工学部建築学科の学生だった時、卒論として選んだガウディ。そのガウディの驚くべき建築にしても、そうです。

 ベルグソンの主著『創造的進化』はとりわけ有名ですが、同著は、緻密な科学的論考、哲学的思考に加え、芸術家を思わせる、鋭い直観的な閃(ひらめ)きに満ちています。まさに、天才の「直観」の産物といえます。

 ベルグソンによれば、「創造」は、何も優れた芸術家だけの特権事項ではありません。生命の進化、ベルグソン流にいえば「生命の根源的躍動」、それ自体が、「創造的」なのです。植物も動物も、進化の筋道こそ違うものの、ベルグソンによれば、共に生命進化の二様態である、ということになります。生命は根源的に躍動している。生命は「創造的進化」を成し遂げ続けている。

 この生命進化の「謎」を、「悟性」にもとづく科学、「悟性」の果実にほかならい科学は見落としてしまう、とベルグソンはいうのです。科学は、その「謎」には踏み込めない、とベルグソンは断じたのです。

 このベルグソンの洞察を、あなたはどうご覧になるでしょうか? ベルグソン哲学は、もはや時代遅れ、現代科学はもっと先へ行っている、と思われるでしょうか? 

 私には、けっして、そうは思われません。ベルグソンの洞察は、実に鋭く、あくまでも原理的だからです。時代を経ても、朽ちないものが、そこにはあります。光と叡智(えいち)が宿っています。

 私たちに求められているのは、科学を尊重しつつも、科学が明らかにしていることと、明らかにしていないこと、あるいは、明らかにできることと、明らかにできないこと、その「可能性」と「不可能性」をしかっりと見据えながら、現代社会を生き抜いていくという「知恵」ではないでしょうか? 

 科学は万能であり、科学のいっていることならすべて正しいと主張するのは、それこそ、 “ 非科学的な主張 ” というものです。科学を無条件に信じる、批判精神もなく無条件で受け入れてしまうということは、それこそ「宗教」というものでしょう。

 私は、科学を尊重しつつも、健全な「常識」を持ち続けていきたいと考えています。










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