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執筆者の写真Nobukazu Tajika

小林秀雄、吉本隆明 〜両氏の違い

更新日:7月17日



◼︎ 小林秀雄氏

『直観を磨くもの』より

/ 新潮社・新潮文庫

写真:新潮社写真部

2014年初版発行)

            

      

 小林秀雄氏、吉本隆明さん

 共通する「徹底したもの」


 私が尊敬する人物に小林秀雄氏がいます。生前、鎌倉に住んでおられた小林秀雄氏には、残念ながら、お会いしたことはありませんが、残されたわずかな映像やお写真で、ご尊顔を拝見したことがあります。

 想像に違わず、小林秀雄さんは「いい顔」をされていました。ちょっと、惚れ惚れするような、「いい顔」でした。といっても、それは、いわゆる「美男子」のそれとは違いますが。意志の強さと優しさが同居したようなお顔というか。

 その小林秀雄氏については、「小林秀雄氏の科学論」「小林秀雄氏のベルグソン論」などのブログ記事で、私はすでに述べてきました。

 また、直接、お会いして、インタビューをさせていただくことになった吉本隆明さんも、同様に、「いい顔」をされていました。吉本さんご自身は「俺は人相が悪いから」と謙遜(けんそん)されていましたが、そんなことはありません。長年の思索的営為が表れた出たような堅固な思想性や、お優しい人柄が滲(にじ)み出たようなお顔をされていました。

 吉本隆明さんもまた、いうまでもなく、私が尊敬する人物の一人です。吉本さんとの出会い、吉本さんに対する連続インタビュー、吉本さんとの共著本、その経緯などについては、「吉本隆明さんのこと」と題したブログ記事で、すでに述べてきました。

 片や保守、方や「独立左翼」を自称する人物。主義主張が異なる、ある意味では、主義主張が180度異なる二人の文学者、思想家を、なぜ私が尊敬するかといえば、お二人が、「本物」だと思うからです。

 そこで、なぜ、私が小林秀雄氏と吉本隆明さん、その両者に惹(ひ)かれるのか、魅力を感じるのかということを、ここで述べておくべきでしょう。

 このことは、かつて私がジャーナリズムに身を置いていたということも一因としてあります。小林秀雄氏、吉本隆明さん、両者に共通するのは、ジャーナリズムに対する不信、批判です。根源的な批判です。そこには、「徹底したもの」があります。

 小林秀雄氏は、CD化された講演の中で、「ジャーナリズムというのは、いつも時流に乗っかるんです。でも、そんなジャーナリズムからは本当の文化は生まれません」と語っておられました。その通りではないでしょうか。

 一方、吉本隆明さんのジャーナリズム批判は、日常茶飯事(にちじょうさはんじ)、読者の間ではよく知られていました。私のインタビューの中でも、吉本さんは、マスコミに登場する学者、知識人、テレビのコメンテーターなどを、よく「バカ」と呼んでおられました。

 新聞の社説などは、その典型ですが、みな、どこか脚色した言説を展開しています。いい換えれば、どこかお化粧をして、よそゆきの言葉で語っています。カッコ付けたり、キレイ事をいっています。自分の言葉では語っていませんし、本当のことをいっていません。

 さらにいってしまえば、ウソばっかりいっている、といって過言ではないと思います。このことは、吉本さんが、口を酸っぱくして、語っておられたことです。

 一時、マスコミの雄という扱いを受けていたジャーナリストの一人に立花隆氏がいます。吉本さんは、私のインタビューの中でも、「臨死体験」などの問題などに触れ、立花隆氏のことにも言及されていました。その折り、「ジャーナリズムの底の浅さ」「ジャーナリズムの限界」ということを口にしておられました。



◼︎吉本隆明氏

『意識 革命 宇宙

 埴谷雄高・吉本隆明対談』より

河出書房新社 / 編集部撮影

1975年初版発行

         

       

 マスコミ、ジャーナリズムのウソ


 このことは、最近のジャーナリズムの報道を見聞きしていても、私も実感として、改めてその通りだと思いました。新型コロナウィルスや、それに伴うワクチン接種のこと、それについての日本政府の対応ぶりなど見ていると、まさに、「狂奏曲」「バカ騒ぎ」としかいいようのないものでした。

 私は医学の専門家である井上正康氏(大阪市立大学医学部名誉教授 医学博士)の『本当はこわくない新型ウイルス』といった本などを読み、日本人はアジア型の新型コロナウィルスに対する免疫力を感染前からすでに持っており、ワクチンの接種は必要がない、かえってワクチン摂取は人体に危険を及ぼすだけだ、という井上氏の主張に得心がいきました。

 今回のワクチンは、人間の細胞や遺伝子に逆に悪影響を及ぼす恐れがある、人類初の遺伝子ワクチン(mRNAワクチン)であり、いうなれば「遺伝子治療の一環」、「ワクチン摂取は人類規模の人体実験にほかならない」という井上氏の主張を、私は「その通りだ」と思いました。ですから、私はワクチン接種を受けませんでした。

 にもかかわらず、テレビなどのマスコミに登場したのは、知識の総合性に欠ける、専門的知識がタコツボ化したような、狭隘(きょうあい)なる専門家、似非(えせ)専門家たちばかりでした。

 しかも、その専門家と称する人たちの多くは、研究助成費や講演料などの名目で、製薬会社からおカネをもらっているのではないか、との疑いを持たれているという有様でした。逆に、井上正康氏のような「本当の専門家」は、週刊誌などで「危険人物」として取り上げられるという始末でした。

 マスコミに登場する専門家、学者、識者と呼ばれる人たち、あるいはジャーナリストたちは、ちゃんと自分で勉強したのでしょうか? 世の流れがこうだから、その流れに沿って発言していたほうが無難だ、得だ、という判断が働いただけなのではないでしょうか。

 アメリカの元大統領であるトランプ氏の「トランプ報道」の時もそうでした。日本のマスコミは、アメリカのマスコミに追随しているだけでした。トランプを、程度の低い、知性が疑われる、あたかも民衆を扇動(せんどう)するだけの狂人のような扱いをしていました。

 アメリカの新聞、テレビなどのマスコミが、概して民主党寄りで、左がかっていること、それゆえ、右寄りの共和党のトランプを叩く、という単純過ぎる思惑を、まったく看過(かんか)しているとしか思えない、偏(かたよ)った報道に終始していました。

 もっとも、これは、朝日新聞、毎日新聞などの新聞報道や、TBSなどテレビ報道などがそうですが、日本のマスコミの報道も、概して左寄りであることを考えれば、まさに確信犯的です。

 このことは、冷静になって考えてみれば、誰しも十分にわかることです。もちろん、これは、トランプを支持する、支持しない、ということとは、まったく別次元の問題です。それ以前の、マスコミの報道のあり方、つまり、ジャーナリズム全体の問題です。

 マスコミの報道——いわゆるジャーナリズムが、何を肯定し、何を支持するかは、基本的にはジャーナリズムの自由でしょう。そもそも、「公正中立」などないし、ありえない、と考えるからです。ただし、そうであるならば、ジャーナリズムは、自分の寄って立つ立場、自分の主義主張などを明らかにするべきです。「公正中立」という、建前だけの報道はやめなければなりません。

 なのに、マスコミの報道、ジャーナリズムは、建前的な言説に終始し、カッコ付けた言説ばかり、キレイ事ばかりをいっています。本当のことをいっていません。さらにいってしまえば、ウソばっかりいっている——そういわれても、仕方がない、というのが現状だと思います。


 「経験」「実感」にもとづく

 「本物の言説」


 小林秀雄氏は、「経験に基づく」ことを持論に、言説を展開されました。一方、吉本隆明さんは、「実感に即してものをいう」ということを持論に、言説を展開されました。

 「経験」「実感」——言葉こそ違え、どちらも寄って立つ立場は同じです。それは、いい換えれば、「自己欺瞞を排することである」、ということにほかならないでしょう。

 そうした徹底した姿勢を貫いたからこそ、両氏の思想的基盤は、あれだけ堅固なのです。ゆらがないのです。小林秀雄氏を評して、かつて「思想の古武士」という言い方がなされたことがありますが、それは、小林秀雄氏のこうした姿勢を感じ取ったからでしょう。私が、小林秀雄氏、吉本隆明さんのお二人を、「本物」だと思うのは、これがためです。

 小林氏は、常々、「自分は経験主義者である」と公言しておられました。小林氏に決定的な影響を与え、小林氏が尊敬してやまないフランスの哲学者ベルグソンもまた、「経験に基づく哲学」の道を切り開き、光線のような、直観と知性に満ち溢(あふ)れた、あの輝かしい哲学を構築したのです。経験主義の哲学を打ち立てたのです、

 小林氏やベルグソンがいう「経験」と、吉本さんがいう「実感」とは、まさに同じものだと思います。ただし、「経験」や「実感」は、個人によって違います。その違いこそが、両氏の違いにほかならない、といえるでしょう。

 ちなみに、吉本さんはインタビューの中で、「戦中、自分は小林秀雄を熱心に読んでいた。これは、いいと思った」と述べておられました。「僕は小林秀雄にイカれていました」と、当時のことを、正直にそう語っておられました。また、吉本さんは、著作の中で、いわゆる世の文芸評論家たちには、「小林秀雄を超えることなど、とうていできないだろう」とも述べておられました。

 同じく「実感」や「経験」から出発しながら、なぜ吉本さんは小林氏とは違う道、つまり「思想的に違う道」を歩むことになったのでしょうか? 

 その最大の要因は、先の「戦争」です。当時の日本の政府や軍部がいうところの大東亜戦争、戦後、マスコミがいうところの太平洋戦争です。このことは、吉本さんの著作からすでにわかっていたことですが、インタビューを通し、改めて、私はこのことを、吉本さんの口を通し、直接、お聞きしました。お聞きすることができました。

 小林氏は、文学者として、あくまで経験にもとづく「内部の目」からものをいう、「内部の目」からしかものをいわないという徹底的な姿勢を貫いておられました。それは、「僕にはイデオロギーがないからね」と述べておられた小林氏の信念、信条の表れでもありました。

 それが、小林氏にとっては、自分にウソをつかず、つまり自己欺瞞に陥らないための、文学者としての「誠実な道」だったのです。

 一方、吉本さんはどうかというと、自分は「独立左翼」であるということを公言されていました。ロシア・マルクス主義の傘下(さんか)にあった、共産党などのいわゆる左翼とは一線を画する意味で、「独立左翼」を自称されていたのです。

 1960年代、かつて学生運動が盛んだった頃、学生運動の理論的支柱の一人、全学連のシンパとみなされていた吉本さんにとっては、イデオロギー、つまり理念の構築は重要な課題でした。文学者、思想家としてみても、理念の構築という課題は、避けて通れない道である——吉本さんには、そう映ったはずです。

 吉本さんの、その背景にあったのは、先の「戦争」です。戦争がきっかけで、吉本さんの文学者としての気構え、スタンス、さらにいえば覚悟というものが変わったのです。180度変わったといっても、過言ではないでしょう。


「戦争」を機に大きく変わった

 両氏の歩み


 このことは、私のインタビューの中でも、吉本さんが明確に語っておられたことです。

 文学青年だった吉本さんは、「人間の心理とか、人間の精神の内面とかについては、ある程度、わかったつもりだったけれど、『戦争』という外側の大変化がやってきたら、そんなものは役立たない、ひとたまりもない」ということに、戦後、痛切に気づかされたというのです。それで、自分は、「外側の世界がわかるように、経済学、社会学、政治学などを勉強しようと思った。それが、戦後の自分の原動力になった」と、語っておられました。

 つまり、吉本さんは、小林氏が認めようとしなかったイデオロギー、小林氏が自覚的に拒否されたイデオロギー、言葉を換えれば、「外部の目」というものを、文学の世界に持ち込んだ、持ち込まざるをえない状況に追い込まれた、ともいえるでしょう。「認識力」「イデオロギー」、つまり、「理念」や「思想」をどう築くかが、吉本さんの戦後の大きな課題になったのです。

 このことについて、小林秀雄の熱心な愛読者だった吉本さんは、「戦争、敗戦、そのことの意味について、最も聞きたいと思ったのは、小林秀雄の声だったが、残念ながら、この文学者からは聞くことができなかった」という趣旨のことを、ご自身の著作の中で書いておられました。

 その一方、なぜ、小林氏がそのことについて黙っていたのか、黙らざるをえなかったのかということについても、吉本さんはよく理解されていました。敗戦直後、いとも簡単に、戦争賛成から戦争反対に転じた知識人、学者、作家たち、そしてジャーナリズム全体、その変わり身の早さは、自己保身以外の何物でもなかったからです。

 当の小林氏はどうだったかというと、「僕は戦争には無知な一国民として黙って処した。召集令状が来たなら、いつでも応じるつもりだったが、召集令状は来なかった」と、戦後、語っておられました。

 敗戦後、間もなく行われた「近代文学」という雑誌の座談会(座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」)で、小林氏は戦争について、いかにも小林氏らしいセリフで、こう断じておられました。

「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起つたか、それさへなければ起らなかつた

か。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもつと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか。(原文のママ)」(「近代文学」 昭和21年2月号)

 小林氏は、「悧巧(りこう)な奴はたんと反省してみるがいい」「僕は無智だから反省なぞしない」と、啖呵(たんか)を切るような、そんな発言をされていました。「いった」というより、「いってのけた」というほうが、より適切でしょう。言葉を換えれば、小林氏は「沈黙」したわけです。

 この啖呵を切るような発言の前段、小林氏はこんな発言をされています。

「 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしてゐない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだつたら事変は起らなかつ

たらう。事変はこんな風にはならなかつたらうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。(原文のママ)」(同)

 敗戦直後、小林氏のこうした発言、姿勢もあり、それゆえ、ジャーナリズムが「小林秀雄を見捨てた」という俗説も、当時、流布したわけですが、もちろん、小林氏の「沈黙」には重大な意味があったのです。

 十分な反省もないまま、いとも簡単に転向して、恥じ入ることのなかった戦後ジャーナリズム——左翼的ジャーナリズムの言説とは、明確に一線を画すように、小林氏はずっと「内なる声」に耳を傾けていたわけです。

 小林氏の「沈黙」には、重い意味がありました。小林氏の傑作『モオツァルト』が刊行されたのが、戦後、間もない昭和22年(1947年)であったことを考えると、この「沈黙」の重さの意味がよくわかります。

 もっとも、この小林氏の「沈黙」にまつわる話として、吉本さんはインタビューの中で、こうも語っておられました。

「小林秀雄はやっぱり優秀な人です。戦争中も戦後も、文学者として、いいふるまいをしました。その代わり、戦後はしばらく文学をやめちゃいましたけどね。それで、モオツァルト、鉄斎、近代絵画などを論じたりしました。本格的なドストエフスキー論を発表し、文学を再開したのは、戦後、少し経ってからです」


 本居宣長を評価する小林秀雄氏


 小林秀雄氏と吉本隆明さん、両氏の違いは、戦争、敗戦を機に、非常に明瞭になっていきます。たとえば、国学者である本居宣長の評価についてなど、180度違ったものになっていきました。小林秀雄氏は、晩年、『本居宣長』(新潮社 1977年)という大作を発表されました。これは、本居宣長を大いに再評価し、肯定した本です。

 本居宣長は「漢意(からごころ)を排(はい)する」ということをいいました。吉本隆明さんは、これについて、インタビューの中で、こう語っておられました。

「歴史的に見れば、中国は自分たちが世界の中心にいるという中華思想を抱いて、周辺の国々——日本国や琉球国、そして東南アジア諸国などを、自分たちの属国として扱うという冊封体制(さくほうたいせい)を築き、何千年もそれでやってきた。

 聖徳太子は『日出ずるところの天子が、日没するところの天子にもの申す』といういい方で、中国に書簡をやり、中国の皇帝を怒らせたという話がありますが、聖徳太子は日本国が独立国であると主張したかったんですね。でも、日本国が本当に独立国だったのかというと、そうじゃありません。

 中国の冊封体制は、江戸時代まで続いていたという形跡もあるくらいですからね。荻生徂徠(おぎゅうそらい)なんかは『物茂卿(ぶつもけい)』という中国ふうの名前まで持っていました。それはやはり、日本は中国の属国だと思っていたことの現れかもしれません。

 それに対して、自覚的に『そうじゃない』といったのは本居宣長なんです。本居宣長は『日本は中国の属国なんかじゃない』と主張し、独自に国学をやり出したわけです。漢意(からごころ)を排して。」

 小林氏は、「漢意(からごころ)を排して」、国学の構築に取り組んだ本居宣長に、重要な意味合いの一つを見てとったはずです。日本人としての原点、日本語の原点、日本語によるところの日本人のものの考え方、などです。たとえば、紫式部の『源氏物語』——本居宣長は、そうしたところに焦点を当て、思索を掘り下げていきました。

 一方、マルクスから強い影響を受け、最終的に「国家の解体」を考える吉本さんからすれば、本居宣長の姿勢は後ろ向きと見えたでしょう。

 小林氏の晩年の大作『本居宣長』は、冒頭、宣長の「独創的な墓の設計」のことを取り上げておられます。宣長は、自分が死んだあと、残された遺族に対して、自分の葬式、自分の墓はこのようにして欲しい、という事細かな遺言書を残しているのです。

 小林氏は、『本居宣長』の中で、こう書いておられます。

「遺言書を書きながら、知らず識らず、彼は随筆を書く様子である。『花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず』 (玉かつま、六の巻)」

 本居宣長は、桜が大好きでした。宣長が詠(よ)んだ有名な歌があります。「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」。宣長は、「やまとごゝろ」を「山ざくら花」に喩(たと)えたのです。

 本居宣長は、遺言書で、「墓場には桜の木を植えよ」といっています。そればかりか、遺言書には、花ざかりの桜の木が描かれています。ことほどさように、事細かく、自分の墓づくりは、こうして欲しいということを、宣長は遺族に対してもの申しているわけです。

 本居宣長の「独創的な墓の設計」を、大作『本居宣長』の冒頭で取り上げた理由は、小林氏によれば、明瞭です。小林氏は、同著の中で、こう述べておられます。

「少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上での好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える。」

 もっとも、小林氏ご自身のお墓は、実に簡素そのものでした。私は、いつぞや、鎌倉の東慶寺に眠っておられる小林氏のお墓を訪ね、お参りしたことがありますが、「これが、あの有名な小林秀雄さんのお墓?」と思うくらい、下手をすれば、見過ごしてしまうほど、簡素そのもの、いや質素といっていいほどのお墓でした。


 本居宣長の「墓」をめぐる

 評価の大きな違い


 吉本隆明さんは、私のインタビューの中で、臓器移植に関し、「臓器移植はお断りだ」とご自身の見解を述べられつつ、自分の死に方については、こう述べておられました。

「自然死的な死に方がいいですね。マルクスの死に方は伝説になっています。椅子に座って話をしている最中、急に話をしなくなって、眠っているのかと思ったら死んでいたというのです。そんな死に方がいいですね。スッーといなくなっちゃうような死に方が一番理想的です。割腹自殺した三島由紀夫のような死に方は、『やれ』っていわれても、僕には絶対にできないですね。

 それから、『自分が死んだら、こんな葬式を出してほしい』と家族に遺言しておくというのは、僕には一切ありません。『あっさりした葬式にしてくれ』なんて遺言を残す文学者などもいますが、いざそうなると、ちっともあっさりしていなくて、大勢、弔い客がきたりして、遺言なんか全然役に立たないということもあります。

 僕にいわせれば、だいたい、遺言を残すなんて、もってのほかですよ。自分が死んだあとまで、『ああせい、こうせい』というのは、どだい、ムリな話です。僕は “死ねば死にきり” だと思っていますから。」

 そう述べられた上で、小林氏が意味深いものとして取り上げた本居宣長の「独創的な墓の設計」については、こう断じておられます。

「その点、一番ひどい文学者は本居宣長ですね。『自分が死んだら墓の寸法はこうしろ』とか、『墓場に桜の木を植えろ』とか、こと細かく遺言しています。僕は、そんなことをいうやつは気持ちが悪いですね。どうかしていますよ。神経がおかしんじゃないかという気がします。『冗談じゃねえよ』って思います。自分が死んだあと、どうするかは、あとに残された人たちの勝手で、ご当人の問題じゃないですよ。」

 本居宣長のお墓ひとつとっても、小林秀雄氏と吉本隆明さんの評価は、このように真っ二つに分かれています。むろん、その分かれ方は、「思想上の分かれ方」です。


 小林秀雄氏の晩年の批評原理

 批判をされる吉本隆明さん


 本居宣長をどう評価するかということは、そのまま晩年の小林秀雄氏をどう評価するかということでもあります。吉本隆明さんは、『重層的な非決定』(大和書房 1985年刊)という自著に収録した「小林秀雄について」という論評の中で、こう評されています。

「 もう小林秀雄の遺品(注:小林秀雄氏の大作『本居宣長』のこと)ともいうべき批評的な階程に触れておわるべきだ。ここに宣明されているのは、わが古典文学や伝統社会を理解しようとするとき『眺め』たり『聞い』たりすることが大切で、頭脳的に理を詰めていったり、合理的な解釈を志しても何もえられないという批評原理である。これは小林秀雄の批評が到達した最後の円環点にあたっている。」

 こう論じるにあたって、吉本さんは、小林秀雄氏の次のような文章を引用されています。

「日本の古典文学は、頭脳的に読んでも殆んど何んの利益も齎さぬものばかりで、文学により頭脳の訓練をする為には、西洋の近代文学を読むのが、どうしても正しい様である。扨て、返答に窮して、といふ意味は、自分では、言わば古典を読んで知るといふより寧ろ古典を眺めて感ずる術を覚えた気がしてゐるのだが、それがうまく口には言へぬ、さういふ次第だ。 (原文のママ)」(小林秀雄 「年齢」)

「『平家』は読んでも分らない。昔の人は聞いたのである。私達には、もう『平家』がどんな音曲に乗って歌はれたか聞く事は出来ないが、『平家』の文章が動かし難い象徴的な形として見えて来るといふ事は、やり方次第で出来るだろう。このやり方は、年齢に関係してゐる。頭脳的には知る事の出来ない年齢と頭脳の摑む事の出来ぬ形との間には深い関係がある様である。(原文のママ)」(小林秀雄 「年齢」)

 こうした小林秀雄氏の文章を引用された上で、吉本さんは、同書の中で、こう断じておられます。

「わたしたちはかれの批評的な遺言ともいうべき『本居宣長』を、かれの批評の最高の達成と呼ぶことにためらいを覚える。最後の円環、いわばじぶんの手による近代批評の完成と、自分が手を下したその封印としてみるほかないようにおもえる。

 ほんとうは戦後すぐに音楽批評と絵画批評に手を染めたときに、矢印は回帰の曲面に切線を描いていたのかもしれなかった。もっとさかのぼれば、戦時下に沈痛な古典論に手をかけていたときに萌しはすでにあったと申すべきである。

 そのときすでに晩年に大著をつくるかどうかはわからなかったが、小林秀雄は本居宣長の『古事記伝』の世界に接触していた。なぜ本居宣長なのか。

 かれは漢字の表意文字や表音文字を象形として『眺め』たり、音声として『聞い』たりということを、ただひとつの直観的な武器として、わが古典の世界にわけ入り、すぐれた学問的な業績と、勧善懲悪的な効用論から自立した文学論と、愚かな民族思想に同時に到達した巨匠だったからだ。本居宣長の像は、小林秀雄の自画像であり、本居宣長の直観的な武器は小林秀雄の批評の方法の自画像にあたっている。」

 さらに、吉本さんは、同書の中で、こう続けておられます。

「戦時中に宣長の『古事記伝』を読んだ直後に、折口信夫を訪ねたとき、小林秀雄はすでに後に『本居宣長』に結晶しているような宣長の思想、というよりも文化的な『自意識』が収斂してゆく原始的な民族思想の擁護のモチーフを獲得していた。

 だがさすがに不世出の古典文学者である折口信夫は、宣長を見抜いていた。『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら』と帰りがけに云ったと小林秀雄は宣長論の冒頭に記している。

 わたしにはこの折口信夫の言葉は、宣長の『源氏物語』論に結晶した文学論は卓抜なものだが『古事記伝』に結晶した原始的な民族思想の肯定は、個々のすぐれた学問的な達成をのぞいては、結局駄目だといっているように受けとれる。」

「わたしたちが現在『源氏物語』をたどるとき、この作品が作者と語り手の完全な分離に耐えるものであることが、すぐに理解される。宣長の『源氏』理解と、それをいわば円環的に追認し、情念を傾ける小林秀雄の『源氏』理解の欠陥は、すぐに『宇治十帖』を論じている箇所にみることができる。

 宣長が『宇治十帖』を読み、小林秀雄がその後姿に追いすがる。そしてわたしたちの現在の読みは、それとすれちがってゆくのだが、すれちがっても、いまは小林秀雄に問い直す事はできなくなってしまった。」

「この『宇治十帖』にたいする宣長の読みも、それを追認して感慨にふける小林秀雄の読みも、まったくちがっているとおもえる。なぜちがってしまうのか。その理由はすでに述べた。物語の登場人物たちを動かす語り手と、語り手を動かしたり、じかに登場人物を動かしたりしている作者とをはっきり分離できない、読みからきている。」


『源氏物語』の浮舟に対する

 両氏の見解の相違


 吉本隆明さんは、『源氏物語』の「宇治十帖」に登場する浮舟という女性の解釈について、同書(『重層的な非決定』 論評「小林秀雄」)の中で、でこう述べておられます。

「最後には浮舟は生き返ったが、もう現世のどこにも帰属感をもてない存在へと転生している。他界から眺めている眼ざしでしか、薫にも匂宮にも向えない彼岸の眼を、浮舟だけが獲得してしまっている。

 作者式部の心は薫の特異な性愛にいちばん注がれているので、浮舟に注がれているのではない。浮舟の眼は、もうどんな現世の人物をも、いわば無表情に拒絶する乾いた孤独を獲てしまっているのだ。

『なつかしみ、又も来て見む、つみのこす、春野のすみれ、けふ暮ぬとも』という宣長の理解は、嘘っぱちとはいえないまでも『宇治十帖』の読みちがえのうえに成立っているとしかいえない。もちろん追認してここに『宣長の愛の深さ』をとりだしている小林秀雄の読みも決定的にちがっているのだ。」

「浮舟にも浮舟の棲家の周辺にも『なつかしみ、又も来て見む』というような宣長の情緒を受容するものは、まったく存在しない。それは『宇治十帖』を丁寧に間違いなくたどるものには、すぐに理解できることだ。

 性格も心ばえもなかった浮舟が、物に憑かれてさ迷いでたあげく蘇生したあとでは、ただひとり他界の 眼を獲得した存在に昇華している。そして『人の、かくし据ゑたるにやあらん』というような性懲りもない薫の述懐など、手のとどかない心ばえに到達している。これが『宇治十帖』の終局なのだ。薫に云いつけられて会いにいった弟の小君を拒絶するように、浮舟は、宣長や小林秀雄の読みをも拒絶するとしかおもえない。」 

 本居宣長や『源氏物語』をめぐる「読み」は、小林秀雄氏と吉本隆明さんとでは、こうも決定的に違っています。どちらを「是」とするかは、もちろん、個々の人たちの判断にゆだねられるべきでしょう。

 私の判断について問われれば、こう申し上げておきます。それぞれの「読み」は、それぞれに許容されるべきで、どちらかが「正しく」、どちらかが「間違い」という見方——そんな見方を、私は取らないということです。小林秀雄氏の見解、吉本隆明さんの見解、双方共に耳を傾けるべき「深さ」があると思います。


 ベルグソンは「神秘的過ぎる」

 吉本隆明さんのベルグソン観


 小林秀雄氏が最も強く影響を受けたベルグソンについても、吉本隆明さんの見方は違います。インタビュー本『超「20世紀論」下巻』(アスキー 2000年発行)の「オカルト流行りの迷妄を正す」という章の中で、吉本さんはベルグソンについて、こう述べておられます。

「ベルグソンが書いた『道徳と宗教の二源泉』という本を読んで、僕は大変面白いと思い、その分析力は、なかなかすごいものだなと感心したことがあります。また、ベルグソンは『笑い』についても分析をしていますが、その分析は厳密で、これはちょっとすごいよって感心したこともあります。

 でも、ベルグソンがいっている精神科学的な事柄というか、精神医学的な事柄については、あまり興味が湧きませんでした。僕からすると、ちょっと神秘的過ぎるよ、観念的過ぎるよって思います。」

 小林秀雄氏も著作の中で引用されていたことですが、ベルグソンには「生きている人のまぼろしと心霊研究」と題した講演があります。その講演の中で、ベルグソンは、こういう不思議な現象を語っています。

 それは、戦争で夫を亡くした夫人の体験です。遠い戦場で、夫は塹壕(ざんごう)の中で戦死した。ちょうど、その時刻、パリにいた夫人はまざまざとその光景を見たというのです。戦死した夫の様子だけではなく、まわりにいた数人の同僚の兵士の顔まで、まざまざと見た。あとで調べてみると、夫人が見たその光景は、まさに事実だった。

 ベルグソンの結論は、念力というまだ知られていない力によって、夫人はその光景を見たと仮定すべきだ、というものでした。つまり、ベルグソンは念力という未知の力があるという仮定をしたわけです。

 しかしながら、これについても、吉本さんは、先のインタビュー本の中で、ご自身の見解をこう述べておられます。

「戦死した夫の光景を夫人がまざまざと見たという話にしても、ベルグソンはそこに念力という未知の力を仮定していますが、そういうことは大げさずに考えずに、理屈づけをあまりしないで、『あっ、そうか』と受け止めるのが、今の科学の発達段階ではいいような気がします。それは事実として、あるいは事実のイメージとして、スーッと自分の中に入れちゃうといいますかね。

 今の科学の発達段階で、下手な理屈づけをしちゃうと、間違うと思うんです。だから、今は、それは未解決の問題として残しておいたほうがいいと思うんです。(中略) 今、科学的といっていることは、あくまで科学の現在の発達段階に応じたことに過ぎません。

 また一方、今、超能力とか、超常現象とかいってることを、科学では解決がつかない神秘的なことだと結論づけてしまえば、それは、神秘主義に陥るしかありません。

 だから、今、よくわからないことはムリヤリ理屈づけをせず、将来に解決をゆだねるのがいい、と僕は思います。『開いたままにしておく』といいますかね。それが、僕が身を置いている思想的な場所です。」


「科学」や「科学の限界」に対する

 両氏の大きな違い


 小林秀雄氏は「現代の神秘家」と呼ばれたもしたりしていました。小林氏のベルグソンに関する見解は、私のブログ記事「小林秀雄氏のベルグソン論」でも詳しく述べましたが、小林氏の「思想」の魅力が、「神秘的」なところにあることは確かに事実でしょう。

 それは、小林氏の学生時代に書いたランボオ論や、『地獄の季節』などランボオの詩に対する小林氏の名訳などにも、よく表れています。ランボオの詩人としての天才的千里眼、ランボオの「見神」の離れ技を語るには、やはり、「神秘的」な要素が不可欠でしょう。小林秀雄氏がベルグソンに惹(ひ)かれたのも、まさにそうだと思います。

 それは、小林氏が詩人の気質を十分過ぎるほど持っておられたからです。しかし、小林氏の場合、それを、単なる「オカルト」と呼ぶことはできません。最高峰といっていい知性の持ち主の小林氏です。あくまで、知性の眼を通して、「神秘的なるもの」に迫ろうという態度は捨てておられません。だからこそ、私たちは、小林氏に惹(ひ)かれるのです。

 一方、吉本隆明さんもまた、詩人として出発された面があります。なのに、なぜ、こうも歩まれた道が違ってきてしまったのでしょうか? 「戦争」という外的事実があったことは、むろんですが、やはり、最終的には、お二方の、持って生まれた「資質」の違い、「個性」の違い、というところに行き着くのではないでしょうか。

 科学に対する見方、関心のありよう、というものを見ても、両氏の態度は明らかに違っています。小林氏の科学に対する姿勢、態度、ものの見方については、私のブログ記事「小林秀雄氏の科学論」で触れました。

 小林氏は、科学を尊重しつつ、「科学の限界」という点に着目され、その点を深く掘り下げていかれます。それは、ご自身が専門とされている文学の価値、文学の意味合い、といったものについて、強い確信を持たれていたことの裏返しともいえるものでしょう。小林氏ご自身の「精神の所在」に対する強い確信、とでもいいましょうか。

 それはまた、ベルグソン直伝の教えを、我が物にまで消化した、小林氏の鋭い直観力、分析力の賜物(たまもの)でもありました。

 一方、吉本さんは、ご自身が理工系出身ということもあって、科学には強い信頼を持たれていました。科学的なことは、専門家に任せるべきで、素人や半素人がとやかくいうべきではない、という姿勢を一貫して貫いておられました。

 私の知る限り、吉本さんは、著作を通しても、インタビューを通しても、小林氏のようには、「科学の限界」ということについて、あまり深くは考察されなかった。思想的に、これを解明しようということはなさらなかったように思います。

 ユリ・ゲラーのような超能力、宜保愛子(ぎぼあいこ)のような霊視能力、そして、UFOやポルスターガイストといった超常現象など、現代の科学が扱いかねているもの、現代の科学では解明できていないものについては、吉本さんは、「結論を急がず、将来の科学の発達にゆだねる。そこは、『開いたままにしておく』」と述べられ、「科学の限界」という観点から、そうした現象を捉えるということは、なさならなかったように思います。


「魂の実在」をめぐる両氏の違い

 二元論か唯物論か?


「精神」と「物質」ということでいえば、小林秀雄氏は「自分は二元論者」である、ということを公言されていました。もともとの小林氏の気質ということもあったでしょうが、そこにはベルグソンの影響が強く見てとれます。

 だからこそ、二元論の立場から、『物質と記憶』などの著作を著したベルグソンについて、小林氏は『感想』と題された長文のベルグソン論(1958年発表 『小林秀雄全作品 』 別巻1 〜2として収録 新潮社)を著されたのです。残念ながら、この『感想』は、小林氏ご自身の意向で未完に終わってしまいましたが。

 二元論とは、端的にいえば、意識の実在、精神の実在、つまり魂の実在を認める考え方です。キリスト教を始めとする宗教の多くは、もちろん、魂は実在する、と考えます。小林氏は、CD化されたご自身の講演の中でも触れておられましたが、「魂の実在」を深く信じておられました。その意味で、唯物論が支配的な現代の見方からすれば、小林氏は「神秘主義者」とみなされたりもするわけです。

 現代社会や現代科学の主流をなすのは、いうまでもなく、唯物論です。私は「唯物論について」という自分のブログ記事で、唯物論について、いささか詳しく述べました。

「宗教はアヘンである」と断じたのはマルクスです。簡単にいってしまえば、共産主義の国家とは無神論国家である、といえましょう。ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』など一連の著作の底流に流れ、問われているのは、「無神論」の問題です。「神なき時代」に「神を問う」という、ドストエフスキーの深刻なテーマが浮き彫りになっている作品です。

 吉本隆明さんは、著作の中でも述べられていましたし、私のインタビューの中でも、こう述べておられました。インタビュー本『超「20世紀論」下巻』(アスキー 2000年発行)の「オカルト流行りの迷妄を正す」という章の中で、おっしゃっておられたことです。

「僕は高村光太郎の『死ねば死に切り、自然は水際立っている』という言葉が好きなんです。僕は “ 肉体が滅びたら精神が滅びる ”というのは疑いのないことだと思います。」

 この発言だけからすれば、吉本さんは唯物論者ということになるでしょう。しかし、世に横行している粗雑な唯物論の持ち主、単純な唯物論者などでは、もちろん、ありません。

 吉本さんは、同章の中で、こうも述べられていました。「精神現象は、単純な唯物論では解けないということですね?」との私の問いに、答えられたものです。

「ええ、そうです。でも、唯物論といっても、エンゲルスの唯物論とマルクスの唯物論とは違うんですよ。エンゲルスは『精神というのは物質の延長だ』といっています。つまり、精神は物質の延長として生まれてくる、物質が精神に転じる、というのがエンゲルスの考え方です。

 僕は『それは違う』と思います。人間の精神現象は、脳という物質に基礎を置いていることは事実ですが、“ 観念の自己増殖 ” といいますか、精神現象が精神現象を生み出すということもありますからね。

 エンゲルスには、精神現象が精神現象を生み出すという観点がないんです。エンゲルスは自然弁証法ということをいって、精神現象は物質的な自然現象の延長に過ぎないとみなしていますが、僕は『そんな、ウメエ話があるもんか』『そんなことをいったら、間違っちゃうぜ』って思います。

 一方、マルクスは物質的な現象と精神現象とは『対応する』とまではいっていますが、エンゲルスのように単純ないい方はしていません。だから、マルクスが手紙で述べた先程のようなことは、手紙という気安さもあって、大ざっぱにいっただけという気もします。」

 吉本さんがいっておられるマルクスの「手紙」とは、マルクスがロシアの社会主義者に宛てた手紙のことです。吉本さんの発言を、さらに追っていきましょう。

「マルクスは歴史法則の基本をなすのが経済現象だと見なしました。経済現象という物質的、実体的な現象がまずあって、精神現象はその経済現象に見合うように、徐々に変化したり、ときには急激に変化したりする、とマルクスはいっています。

 つまり、精神現象というのは、必ず経済現象に伴って変わっていくものである——それが、『俺が見つけた法則だ』と、マルクスいったわけです。

 だけど、僕はそれをあまり信じていません。アテにならねえよ、そんなことをいったら危ないよって思います。もっとも、マルクスがそういうことをいったのは、ロシアの社会主義者にあてた手紙の中でだけです。本格的な著作の中ではいっていませんから、マルクスがどこまで本気でいったのかという疑問はあります。

 経済現象が歴史を動かす主たる要因であるというのは、僕もそうだと思いますが、経済構造という下部構造が変化すれば、精神現象がそれに伴って、それに見合うように変化していくかといえば、そんことはないよって思います。

 今の日本は、『超資本主義』という高度な資本主義の段階に入っています。でも、日本人の精神が、経済の発達に伴って、それに見合うほど高度になっているかといえば、そんなことはありません。」

 吉本さんが自ら造語された「超資本主義」という言葉が、ここで出てきます。「超資本主義」ということに対する吉本さんの考察は、極めて興味深いのですが、この記事の本題ではありませんので、こでは、それに深入りしません。


 「死」や「死に対する恐怖」

  吉本隆明さんの見解


 吉本隆明さんは、「高村光太郎の『死ねば死に切り、自然は水際立っている』という言葉が好きなんです。僕は “ 肉体が滅びたら精神が滅びる ”というのは疑いのないことだと思います」とおっしゃっておられます。ですから、「死後の世界」はない、と吉本さんは考えておられるということになるはずで、小林秀雄氏のようには「魂の実在」を信じてはおられない、ということになるでしょう。

 しかし、そのことは、一旦、さておき、「死」についてや「死に対する恐怖」に関する吉本さんの考察は大変興味深いので、それについても、ここで述べておきます。

 吉本さんは、「死」や「死に対する恐怖」を、あくまで「思想の問題」として捉えておられます。「思想の問題」として、読み解こうとされているのです。

 吉本さんは、インタビュー本『超「20世紀論」下巻』(アスキー 2000年発行)の「オカルト流行りの迷妄を正す」の章の中で、こう述べておられます。

「『死』ってのはどこにあるんだといえば、サルトルなんかは、『パリからリオンまでいく列車がある。パリでその列車に乗ったら必ずリオンに着く、というふうには死はない』といっています。」

 サルトル自身は、「人は他人の死しか経験しない」と述べています。その見方を、吉本さんに振ったところ、話はフランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926年〜1984年)のことに及びました。

「ええ、そうですね。それからフーコーなんかは、『死は老年のあとにくるものじゃなく、死は最初から別のところにあって、それは赤ん坊から老年まで、その人をすべて見ているものなんだ』といういい方をしています。最近は僕も、『死はその本人にはないんだ』といってもいいんじゃないか、という気がしてきています。」

 哲学者のウィトゲンシュタインも、その有名な著作『論理哲学論考』の中で、「死は人生の出来事にあらず」と述べています。そのことを引き合いに出し、私が「そういわれても、死に対する恐怖感がなくなるわけじゃありませんね?」と、聞き返すと、吉本さんはこう答えられました。

「ええ、確かにそうですね。そういったからといって、死に対する恐怖感がなくなるわけじゃないし、『死ぬのが恐い』という観念が、どうしても浮遊してきますね。でも、『死ぬのが恐い』ということの大本は、『生まれるのが恐い』ということなんじゃないでしょうか。

 胎児は『生まれるのが恐い』ということを意思表示できないし、母親のほうも『生むのが恐い』ということを胎児にいい聞かせることができませんから、そこのところで、どうしても胎児の無意識に恐怖心が残るんじゃないでしょうか。

 だから僕は、胎児のときを含む一歳未満までの時期に、母親が『本当にこの子を生みたい、生んでよかった』と思い、慈愛に満ちた完璧な育て方をしたなら、そういう育て方をされた人には、死に対する恐怖感はないような気がするんです。

 一歳未満までの育てられ方が不十分で、悪かったがために、現世に対する満たされない思い、『心残り』が無意識の中に刻まれてしまう。その『心残り』も、死に対する恐怖感につながっているんじゃないかと思うんです」

 私は、吉本さんにこう質問しました。「『心残り』と「恐怖感』というのは、感情として違うような気がしますが?」、と。その問いに、吉本さんはこう答えられました。

「胎児や赤ん坊のときの『心残り』ですからね。無意識の中に入っちゃっている感情ですから、死に臨んだとき、それが恐怖感として出てくるということは、僕はありうると思うんです。」

 そこで、私はさらに重ねて質問しました。「死に対する恐怖感は、通常は動物的本能に由来すると思われていますが、違うわけですか?」、と。吉本さんの答えはこうでした。

「僕の解釈では、それは違うと思います。来世とか前世とかいわれているものは、胎児の時期に段階的に形成される無意識の反映なんじゃないか、と僕は考えています。つまり、その間の育てられ方いかんによって、来世や前世のイメージがどう形成されるかが決まってくるわけです。

 だから、その間、完璧な育てられ方をされ、『心残り』がまったくない状態で生まれてきたなら、その人は、死に対する恐怖感もないんじゃないかと思います。」

 吉本さんは、「死」や「死に対する恐怖感」を精神分析的に読み解こうとされているわけです。私が、吉本さんに対し、「ご自身は、 “死ぬことに対する恐さ ” というのは、おありですか?」と尋(たず)ねると、こう答えられました。

「半分は恐いですね。でも、足腰が痛くなったりとか、年齢的に身体がだんだん衰えてきた面がありますから、『死ぬのはしようがねえ』という気持ちも半分くらいはあります。だから、『死にたくない』という気持ちが格別にあるわけじゃありません。それにしても、棺桶に片足を突っ込んだような年齢になった今の心理状態というものは、『イヤなもんだね』とは思いますけど。」


 フーコーを「巨大な人」と評価する

 吉本隆明さん


 吉本さんは、インタビューの中で、たびたび、フーコーについて言及されています。なぜ、吉本さんが、フーコーに引き寄せられたのか? 

 吉本さんは、インタビュー本『私の「戦争論」』(ぶんか社 1999年発行 / 後に筑摩書房が「ちくま文庫」として文庫化 2002年 発行)の中で、こう語っておられます。

「『革命』の理論的支柱となったマルクスにしても、その発想には秩序があります。支配者と被支配者とか、資本家と労働者とかいった対立をマルクスは想定しますが、それは上下関係の秩序です。

 その発想のもとにあるのはキリスト教なんです。自然をつくったのは神であり、神が一番上にいるという秩序です。その上下関係的な秩序は、ヨーロッパではギリシャ・ローマ時代から一度も崩れたことがないんです。そういう意味合いでは、マルクスもヘーゲルも、みんなキリスト教的な思想系列に立っていることになります。

 そういうキリスト教的な秩序に、倫理的な面から爆撃を加えたのがニーチェです。それは、ニーチェの『アンチ・クリスト』『道徳の系譜』『ツァラトゥストラはこう語った』などを読めばわかります。『ツァラトゥストラはこう語った』は、“ ニーチェ聖書 ” ともいうべき著作ですが、その中でニーチェはイエス・キリストに代わるアンチ・キリストの『超人』という概念を自分でつくってみせました。

『ツァラトゥストラはこう語った』が、イエス・キリストの言行録である『新約聖書』ほどよくできているかどうかは疑問としても、ニーチェはキリスト教的な秩序の系列にあるヨーロッパの歴史的な価値観を倫理的に破壊しようと試みたんです。

 そして、そのニーチェの思想から倫理的な面だけを抜いちゃえば、構造主義的な思考を持ったニーチェが残るわけですが、そこから新しい独自の思想を構築しえたのは、僕にいわせれば、フーコーだけなんです。だから、フーコーは巨大な人です。

 神が上にいて、人間がその下にいる、それならば、その上下関係を引っ繰り返せばいいんじゃないかというのは、バクーニンをはじめとするアナーキスト(無政府主義者)たちの発想ですが、そんな発想なら、これまでいくらでもあったんです。それは、結局、上下関係を逆さまにしただけで、キリスト教的な秩序の裏返しに当たるんです。

 フーコーは、人間の思考の歴史というのは『層』だといったんです。上下関係というのは垂直の関係だとすれば、左右の関係というか、水平の関係というか、フーコーは水平的なものの積み重ねでもって、人間の思考や人間の思考の歴史ができているといったわけです。

 要するに、上下関係の秩序という考え方はダメだといったんです。これは、単独に打ち立てられた独自の思想で、マルクスが提起したあらゆる問題に適用できる思想なんです。

 たとえば、国家がこれからどうなっていけばよいかといったことに対しても適用できます。フーコーの主著『言葉と物』は、そういう独自の思想が語られた労作です。フーコーが残した大きな業績ですね。」


 フーコーは

 「モノの歴史」しか認めない


 吉本さんは、ヘーゲルやマルクスに習って、「段階」という言葉をよく口にされます。「段階」とは、たとえば、「経済的段階」ということです。

 私は、インタビュー本『超「戦争論』 下』(アスキー 2002年発行)の中で、吉本さんに、こう問いかけました。

「『段階』という観点の有効性をずっと述べてこられたわけですが、ロシア・マルクス主義の『段階』についての考え方は機械的であり、間違いだったということでしょうか?」と。

 その問いに対する吉本さんの答えは、こうでした。以下は、いずれも同書の中での吉本さんのお答えです。

「そうです。ソ連のロシア・マルクス主義は、なんにでも『段階』という考え方を適用しようとしたんです。産業に対してもそうですし、未来だって段階という考え方で予測できるというか、未来というのは段階でもって決まる、としたわけです。

 ヘーゲルやマルクスがいう段階というのは、大きな括(くく)りであって、ある意味では大ざっぱな括りです。そういう大きな括りだからこそ、段階という観点を取ると、歴史を俯瞰(ふかん)できるというか、歴史の本質が見えてくるわけです。細部に気を取られて、あまりにも近づき過ぎて物事を眺めると、本質や全体像が見えなくなってしまいます。歴史もそうです。

 世界史を段階という観点で眺めるということは、その意味で非常に有効なわけですが、ロシア・マルクス主義は、なんに対しても段階という考え方を適用できると考えたんです。そこに、ロシア・マルクス主義の錯覚があったわけです。

 最初に錯覚したのはレーニンです。レーニンの『ロシアにおける資本主義の段階』という本は、レーニンが生きていた当時のロシアが、それほど発達した資本主義の段階に達していないにもかかわらず、あたかもそうであるかのように論じているんですね。

 要するに、“ おまけ ” して書いてあるんです。そういう “ おまけ ” なんかも、段階についての錯覚を生んだ原因の一つだと思います。いろいろな史実が明るみに出た後世にいる僕らなんかからすると、そのへんは、やっぱり、『けしからん』っていうふうに思っちゃいますね。

 そういうこともあって、現在の歴史学の主張は、それとはまったく逆の流れになっています。精神史的な意味での歴史とか世界史とかを論じるのは、もう、やめにしようという流れになっているんです。それで、個々の道具——たとえば茶碗なら茶碗について、あるいは職人の技なら技についての即物的、機能的な面での変化、変遷について論じる、というふうになっているわけです。

 フランスの哲学者のフーコー、特に晩年のフーコーなんかもそうです。そして、そういう即物的、機能主義的な歴史観を展開したことで、フーコーは評価されたりしています。ヘーゲルやマルクスが認めたような精神史という、得体の知れない無形なものを歴史の対象にしても埒(らち)があかない、そんな精神史を歴史と呼ぶのはアテにはならない、ということですね。そういう考え方が現在の歴史学の主流です。」

 そこで私は続けて、吉本さんに、「フーコーは、なぜ、そうした歴史観を持つに至ったのでしょうか?」と、お尋(たず)ねしました。吉本さんのお答えは、こうでした。

「それは、フーコーだからということではなく、フランスの知識層の固有性みたいなものとも関係してくるわけですが、要するに、機能主義的なんですよ。フーコーは共産党に入ったり、そこから出たりという経験もしているわけですが、そういう体験を経て、最後に残ったのは機能主義的な考え方だったんです。もっとも、フーコーは、初めっから機能主義的といえば機能主義的だったんですけどね。

 フーコーの目には、ロシア・マルクス主義に見られる唯物論的な機能主義というのは、変に精神史が含まれたりしていて、中途半端だと映ったんです。それで、精神史を徹底的に排除して、茶碗なら茶碗という具体的なモノについて、古代と中世とではどう焼き方が変わったかといったことを論じるべきである、歴史というのは、そういうところでしか成り立たない、というふうにフーコーは考えたわけです。つまり、フーコーはモノの歴史しか認めないわけです。

 ロシア・マルクス主義における唯物論というのは、精神をもった人間もまた、唯物的な自然の産物の一つであるというふうに考え、精神を物質的現象の延長として捉えるわけですが、フーコーにいわせると、そういう考え方自体も、あいまいで不徹底である、ということになっちゃいます。フーコーは、人間というのは、歴史の流れの中の、ちょっとだけ隙間が空いたところにポツンとはめ込まれている存在にすぎない、といっています。」

 ちなみに、小林秀雄氏もまた、歴史ということについては、よく言及されていました。小林秀雄氏は、CD化された講演の中で、「歴史とは人間の精神史にほかならない」と述べておられました。「モノの歴史しか認めない」というフーコーとは、180度違う見解を示されていました。


 「善悪の問題」を

 一番深く考えた親鸞


 さて、話を「死」の問題に戻しましょう。吉本さんが、「死」の問題も含め、思想的に最も重要視されたのが、仏教家の親鸞(しんらん)です。親鸞は1173年の生まれで、1263年に亡くなっていますから、90歳で亡くなったことになります。平安時代後期に生まれ、鎌倉時代の前期、中期にかけて活躍した仏教家であり、思想家です。

 親鸞の教え、思想として、つとに有名なのが、「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という、いわゆる「悪人正機説」です。善人は往生を遂げる、だったら悪人はなおのこと往生を遂げられる、という逆説的な考え方です。

 短絡的に考えると、そうであれば、往生するためには積極的に悪をなしたほうがいいのではないか、ということになります。現実に当時、積極的に悪をなしたほうがいいという「造悪論」を唱える輩(やから)が、出てきました。

 このことについて、吉本さんにご質問したところ、次のように答えられました。以下は、いずれも、インタビュー本『超「20世紀論」 下』(アスキー 2000年発行)での、吉本さんのお答えです。

「親鸞が生きていた当時から、その『造悪論』に基づいて、悪いことを実際にやってしまった親鸞の弟子たちがいます。それで、あるとき、親鸞に忠実な弟子が『造悪論』の是非について親鸞に尋ねているのですが、それに対して親鸞は、『悪人のほうが往生しやすいということと、進んで悪をなしたほうがいいということとは、まるで次元の違うことだ』と述べています。

 また、『いい薬があるからといって、わざわざ病気になるやつはいないだろう』とも述べています。でも、これはちょっと消極的ないい方であって、これでもって、すべて納得できる論理になっているかといえば、僕はそうは思わないですね。親鸞は、『進んで悪をなそうが、何をしようが、それでも往生するよ』といっていると思います。」

 吉本さんがそう答えられたので、私はさらにこうお尋(たず)ねました。

「『進んで悪をなしても往生する』というのは、つまり、親鸞は、浄土における善悪の基準は、現世の人間の善悪の基準と違っていると考えているということですか」、と。

 吉本さんは、こう答えられました。

「そうだと思います。親鸞は、『善悪の基準の規模が違うんだ』といっていると思います。

もっとわかりやすくいえば、現世よりも来世(浄土)においてのほうが、善悪の規模が広大なんだ、無限に広いのだ、現世の人間が考えている善悪というものと、浄土におけるそれとは、まるでスケールが違っているんだ、と親鸞はいいたいのだと思います。」

 そして、吉本さんは、こう続けられました。

「親鸞は、『人間が現世において悪をなすか、善をなすかということは、ただ契機があるか、ないかの違いだ』といっています。

 親鸞は、弟子の唯円に対し、『自分のいうことなら、なんでもいう通りにするか?』と尋ねます。唯円は『なんでもいう通りにします』と答えます。そこで、親鸞は『それなら1000人殺してみなさい』というんです。唯円は『自分の器量からしたら、一人の人間も殺せません』と答えます。

 そうすると、親鸞は『そうだろう。人間というものは、殺す契機があれば、100人だって、1000人だって、人を殺すことがありうるんだ』というんです。現在も、国家間の戦争があると、どんな人であれ、100人だって、1000人だって、人を殺すということがありうるのではないですか。

 善悪というのは、契機のあとで出てくる問題なんです。人を殺すかどうかというのは、極限の例ですが、善悪の問題について、一番深く考えた宗教家は親鸞だと思います。」


 親鸞は「仏教の破壊者」

 吉本隆明さんの親鸞観


 親鸞を、何よりも、「思想家」として捉えようというのが、吉本さんの考え方です。吉本さんは、インタビュー本『超「戦争論」 下』(アスキー 2002年発行)の中で、こう述べておられます。

「仏教についていうと、僕が好きな親鸞というのは、仏教の破壊者なんです。親鸞は、善悪の問題を深く追究して、仏教という宗教を、倫理と変わらないくらいにまで思想的に解体しちゃった——宗教を倫理にしちゃうというくらいに思想的に解体しちゃったんです。そういう意味では、親鸞が唱えた浄土真宗というのは、仏教では一番新しい、一番発展した段階にある、ということもいえるわけです。

 親鸞がやったことは一種の思想運動です。親鸞は、キリスト教において新教のプロテスタンティズムがやった以上の宗教の解体を、仏教でやっちゃったわけです。『歎異抄(たんにしょう)』を読むと、『新約聖書』と内容的にとても似ているところがあって、親鸞は『新約聖書』を読んだことがあるんじゃないか、とさえ思えるほどです。

 親鸞には、仏教を思想的に解体するにあたって、『自分がとどめを刺す』という自覚があったんじゃないかと思います。僧侶としての自分の名前を親鸞としたこと自体が、そういう自覚の表れじゃないかと思います。

 親鸞というのは、釈迦に次ぐと目されているような人たち——インドの大乗仏教の元祖と、中国の大乗仏教の元祖の名前から、それぞれ一字ずつ取った名前なんです。インドの大乗仏教の元祖の名前は、世親(せしん)あるいは天親(てんじん)といいます。一方、中国の大乗仏教の元祖の名前は、曇鸞(どんらん)です。親鸞の『親』という字はインドの大乗仏教の元祖から、「鸞」という字は中国の大乗仏教の元祖から取ったものなんです。

 そういう名前を自分に付けているわけですから、親鸞には『自分は世界的な視野で仏教というものを見ている』という自覚があったんじゃないかと思うんです。

 アジア的段階というレベルにとどまっている仏教なんて、自分が解体してやる、そんな仏教には自分がとどめを刺してやる、自分が目指しているのは世界性をもった普遍的な仏教である、という自覚が親鸞にはあったんじゃないかと思うんです。もっとも、当時の日本においては、『世界』というのは東洋のことですから、ここでいう『世界性』というのは、『東洋性』のことですけどね。」

  

 吉本さんが親鸞から学んだ

 思想的な「視線の問題」



 吉本さんは、宗教を読み解く際にも、「段階」ということ、人類の歴史における進展具合ということを、自らの思想の中に繰り込んでおられました。そして、吉本さんは、親鸞の中核思想というものに、いよいよ迫っていかれます。

 吉本さんは、インタビュー本『超「戦争論」 下』(アスキー 2002年発行)中で、こう述べておられます。

「やっぱり、『段階』を踏まえるということが大切なんですね。理想をもつことは、もちろん大事ですが、段階をスッ飛ばして、『未来はこうなる』みたいな下手な予測や予言をしても、アテにはならないというか、空論になっちゃうと思うんです。

 現実と理想ということに関しては、親鸞が究極的なことをいっています。親鸞は非常に卑俗な例でもって、それを説明しています。道端に、飢えた人たちや、ケガをした人たちがいたとしますね。そこを通りかかったとき、そういう人たちに食べ物をあげたり、薬をあげたりする、それが普通の意味での慈悲ということです。

 でも、普通の慈悲には、おのずと限界があります。飢えた人たちや、ケガをした人たちを助けるといっても、個人がやれる範囲というのは限られていて、飢えとかケガとかで困っている人たち全部助けおおせられるかといったら、それは不可能だからです。

 じゃあ、どうしたら、困っている人たちを全部助けおおせられるのかということになりますね。そこで、親鸞は、『浄土の慈悲』ということをいうわけです。親鸞は、浄土の慈悲というのは、普通の慈悲とは違うんだといいます。

 浄土教では、法然あたりまでは、浄土というのは究極の場所で、人間は死んだら浄土へ行くっていうふうに考えられていたわけですが、親鸞の言い方は、そうじゃないんですね。浄土にいこうと思ったら必ずいける、浄土に直通にいける場所があるんだ、と親鸞はいいます。親鸞は、その場所のことを、『正定聚(しょうじょうしゅ)の位』というふうに呼んでいます。

 『正定聚の位』というのは、いうなれば生と死の中間にある場所ですね。その場所は、人間が肉体的に死ぬとか、精神的に死ぬとかといったこととは関係のない場所です。思想的に捉えられた場所である、といっていいと思います。

 親鸞がいう『正定聚の位』というのは、物事が全面的に見える究極の場所のことです。その『正定聚の位』にまでいって、再び、この世に還ってくる。そうすることによって初めて、困っている人たちを全部助けおおせられるだけの器量とか倫理性とかといったものが、その人に備わる、と親鸞はいうんです。

 還相(げんそう)という言い方をしますが、還(変え)りの相、還りの姿で、再びこの世に戻ってきて、人々と共に暮らす、そういうことができたときに初めて、困っている人たちを全部助けおおせられることができるというわけです。

 飢えた人たちや、ケガをした人たちが道端にいるのを、たまたま見かけたか助けるというのは、『正定聚の位』にいく際の、行きがけでやっていることであって、極端にいえば、それは、どうでもいいことなんだ——困っている人たちを助けるのも自由だし、助けないのも自由である、助けなかったからといって別に悪人ではない、と親鸞はいいます。行きがけで、そういうことやっても、困っている人たち全部を助けおおせることはできない、そういうやり方ではダメなんだ、ということですね。

 僕は宗教家ではないので、親鸞がいっていることは『視線の問題』である、というふうに考えています。人間というのは、通常、物事を現実の側、現在の側からしか見ないわけです。未来の事柄というものは、その事柄と実際に出くわしたときに初めてわかるわけで、未来というのは、現在の側から未来の方向に向かってのみ見ることができるわけです。その方向は一方向でしかありません。

 親鸞が還相(げんそう)ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向から——未来の側からといいましょうか、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せもつってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向こうからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。

 たとえば、お医者さんとかが、『タバコを吸うとガンになりやすいから、タバコを吸うのをやめなさい』って、よくいいますね。でも、それは、行きがけの言い方に過ぎないんです。タバコを吸ったからといってガンになると決まっているわけじゃありませんし、タバコを吸わない人たちだってガンになりますからね。タバコをやめた代わりにアメ玉ばかりをなめていたら、そのせいで、胃が悪くなって、胃ガンになっちゃうかもしれません。

『タバコを吸うとガンになりやすいから、タバコを吸うのをやめなさい』というだけでは、こうしたことについては、なんの解決策にもなりませんし、どうしてタバコをやめなければならないかということについての本当の答えにもなっていないんです。それは、そういう言い方が、行きがけの言い方だからです。」


 思想的に捉えられた

 「死」とは何か?


 人間は、いつ死ぬのか? 自殺ということを抜きにすれば、「死ぬ時期」というのは、誰しも、自分にはわからないものです。吉本さんは、「死は不定だ」との親鸞の言葉を引き合いに出しながら、こう述べておられます。

 ちなみに、吉本さんにインタビューさせていただいた当時は、臓器移植法の問題が取りざたされていた頃でした。国内の宗教法人の約9割が加盟する日本宗教連盟が、「駆け足審議での(臓器移植法)成立は大変遺憾。『人の生と死』をどうとらえるかという宗教的、哲学的な問題こそ、参院で審議を尽くすべきだった」と、コメントしていた時期です。

 吉本さんは、インタビュー本『超「20世紀論」 下』(アスキー 2000年発行)の中で、こう述べておられます。先の吉本さんの発言と、いささか重複(ちょうふく)しますが、大変、興味深い発言なので、記載させていただきます。

「国会で議論しろなんて、おかしいですよ。そんなことをいうのは、宗教家として落第です。宗教家なら、自分の言葉で人間の生と死について語るべきです。

 それを一番ハッキリと語ったのは、僕が最も好きな親鸞(しんらん)です。親鸞は宗教家であり、かつ思想家でもありました。親鸞は、宗教運動をほとんど思想運動にしちゃった仏教の解体者なんです。親鸞は『お寺なんかいらねえ』といって、お経をよむのもやめちゃうし、肉も食っちゃうし、妻帯もしちゃう。当時でいえば、まさに “ 破戒坊主 ” です。

 親鸞は『死は不定だ』といっています。つまり、人間はいつ、どんなふうに死ぬかわからないということです。人間は、あらかじめ予想を立てて死ぬことはできませんからね。

 人間はいつ、どんなふうに死ぬのかわからないのだから、臨終のときの念仏にことさら重きを置くとか、念仏を唱えながら死ねば浄土にいけるとか、そんなことをいうのは間違いだと親鸞はいいだしたのです。

 念仏をしょっちゅう唱えて、信心が深ければ、浄土へいきやすくなるというのはウソだし、いいことをすれば浄土へ行けるというのもウソだ。念仏は、一生のうち一回、真心を込めて唱えればいいんだ、念仏を何度も唱えるというのは、余裕があったらやればいいことだ、そしてまた、修行なんか一切するな、というわけです。

 親鸞は、死とは、常識がいうところの生と死の中間にある『正定聚(しょうじょうしゅ)の位』のことだといっています。それは、浄土そのものではないけれど、浄土に直通の場所なんだ、というのです。

 親鸞はまた、こうもいっています。『死とは、そこから見ると、物事が全面的に見える場所だ』と。通常、現実の出来事というものは、それが起きて、その出来事に出合うところからしか見えないわけですけどね。僕は信仰者じゃないですから、親鸞ほど全身的にそうだとはいえませんが、いって戻ってこられる自在な場所です。

 その場所から眺めると、現実の出来事が全面的に眺められる。還相(げんそう)ですね。向こうから眺める。そうすると、物事が全面的に見えるわけです。僕は宗教家じゃありませんから、『視線』という言葉を使って、そういうことをいっています。その場所は、僕にとっても思想の原点となる場所です。」

 未来から現在を眺めることができる眼、そうした「視線」を獲得できれば、物事が全面的に見えるという「場所」。吉本さんは、あくまで思想的にそうした「場所」を捉えようとされており、その知的営為には、実に興味深いものがあります。

 吉本さんが、ヘーゲルやマルクスから学んだと述べておられる「段階」ということも、そうした未来から現在を眺めることのできる眼、視線を獲得できれば、より明確になってくるもののはずでしょう。もちろん、あくまで、そうした眼、視線を獲得できれば、という話ですが。


 両氏の違いは

 「文体」を見ても明らか


 さて、本題に戻りましょう。ここでの本題は、小林秀雄氏と吉本隆明さん、その違いということです。精神と肉体の問題、「死」の問題、魂の実在の問題、いずれをとっても、小林氏と吉本さんは大きく違います。それは、これまで書いてきた私のブログ記事を読んでくだされれば、ある程度、ご理解いただけるかと思います。

 最後に、「文体」という観点から見た、小林秀雄氏と吉本隆明さんの違い、両氏の違いについても述べておきましょう。「思想の違い」は、「文体の違い」となって、明瞭に表れています。

 若い頃から、「音楽が非常に好きだった」とおっしゃっておられた小林秀雄氏。その小林

氏の文体は、実に音楽的であり、日本語の韻律を熟知しておられた人の、それです。詩的感性と、知性——緻密な論理性に彩られた文章の魅力、卓抜さ。ムダを極限まで削ぎ落としたかのような、彫琢(ちょうたく)された文章は、まさに超一流の職人芸といっていいほどの域に達しておられたと思います。

 小林氏は、実際、ムダな文章を削ぎ落とし、贅肉(ぜいにく)のない文章を書くことで知られていました。それは、残された小林氏の手書き原稿の推敲(すいこう)のあとを見ても、よくわかります。

 モオツァルトという天才中の天才である音楽家を主題とした小林氏の著作である、傑作『モオツァルト』。音楽家という主題が、小林氏の音楽的な文章という類まれな『楽器』によって、——それが見事にあいまって、紡(つむ)ぎ出されていく。

 小林秀雄氏の文章、文体が醸(かも)し出す雰囲気は、知性によって捕捉され、しかも、詩的感性に満ちた叙情も充分にある、「知的叙情詩」とでもいいましょうか。それは、まさに日本語によって書かれた「日本語による傑作」といって過言ではない、と思います。

 もっとも、当の小林氏は、「僕は芸人でね。原稿用紙の上でペンを転がしていないと書けないんだ」ということも、対談だったか、鼎談(ていだん)だったか、どこか本の中で語っておられました。それは、やや自嘲気味(じちょうぎみ)に、そう語っておられたわけですが。

 しかしながら、同時に、私には、小林秀雄氏の「芸術家の自負」のようなものも感じ取れました。既製のイデオロギーに基づいて自分は原稿を書いてなぞいない、書いてみなければどんなものが書けるかわからない、そういうものを自分は書いているんだ、という「芸術家の自負」のようなものです。それこそが、「創造」という営為にほかならないんだ、ということも、言外におっしゃりたかったのではないでしょうか。そのようにも、私には思われました。

 一方、小林秀雄氏の「文体」に比べれば、吉本隆明さんの「文体」は、音楽的とはいえません。小林秀雄氏のように、韻律をきちんと踏んでいるような、「調べを織りなす』ような文章ではありません。むしろ、逆で、力学的というか、筋骨たくましい、「文体」です。

 それは、何よりも、「理念」や「思想」を明確に打ち出した文章だからだ、と思います。細部の彫琢にはさほどこだわらず、大胆な大きなつかみ、大胆なデッサン力に満ちた文章であり、文体です。ミケランジェロを思わせるような、大胆なデッサン力とでもいいましょうか。


 両氏の違いは

 「語り」にもよく表れている


 小林秀雄氏と吉本隆明さん。その違いは、「文体」だけでなく、「語り」にも、よく表れています。

 私は、小林秀雄氏の「語り」については、残された市販のCD化された小林秀雄氏の講演録などで、何度となく聴き直しました。また、吉本隆明さんの「語り」については、インタビューを通し、150時間以上も直接お聴きする機会を得ました。幸運に恵まれました。お二方共、実に魅力的な「語り」であり、それぞれに、独自の「雄弁さ」を持っておられます。

 音楽にたとえるなら、小林氏の「語り」は、あえていえば、特に高音部に秀でている、ともいえるでしょう。巷(ちまた)にいうごとく、小林氏は、頭の回転が驚くほど速く、論理も感性も鋭敏です。どこか、ダイヤモンドのような、「硬質の輝き」を思わせます。

 小林秀雄氏は、講演の中ではどこか人を食ったような言い方をされる時も、時々、ありますが、そうした時でも、いかにも「人間通」らしい、「人生の達人」といった「ふくみ」があるような語りというものが感じられます。やはり、「精神の深さ」というものがあります。

 知性、感性、教養に満ち、それでいてインテリ臭さなど微塵(みじん)も感じさせない、お心の優しさ、思いやり、というものが、小林秀雄氏の講演を通して、よく伝わってきます。やはり、並みではない、第一級の人物である、と感服させられます。

 一方、吉本隆明さんの「語り」も、また、並みではない、第一級の人物である、と感服させられます。インタビューをさせていただいた時、吉本さんは70代半ばから後半というご年齢に差しかかっておられました。そうしたご年齢のこともあったかもしれませんが、肩の力が抜けておられるというのか、知識人ぶるようなご様子は微塵(みじん)もありませんでした。

 それでいて、知識、教養の深さは無尽蔵(むじんぞう)といった感がおありでした。どれだけ、書物を読み込まれたのでしょうか。余人が、とうてい追いつけないような読書量に違いありません。

 そして、お人柄といいましょうか。お心の優しさ、温かさ、それに加えて、年輪(ねんりん)や貫禄(かんろく)といったものが、自ずと滲(にじ)み出ておられました。

 吉本さんの「語り」は、その著作から想像されるものとは違い、むずかしい言い回しは一切されず、実に平易な言葉を使っての、それでした。相手の理解が進みやすいよう、平易な語り口をされながら、言葉を重ね、徐々に「思想の核心」に近づいていくといったふうでした。その意味では、やはり、重層的な「語り」でした。

 聞いていると、それと気づかぬうちに、いつの間にか、重層的な「思想の織物」ができているといったふうなのです。あたかも、自然界にいるクモが、見事な「クモの糸」を織りなすかのように、いつの間にか、気がつくと、最後には、自然と「思想の織物」ができているのです。いうなれば、縦糸(たていと)は論理、横糸(よこいと)は感性、その両方の糸で織り上げられた、見事な「思想の織物」といった具合なのです。

 音楽にたとえるなら、高音をうまく拾いつつも、何よりも、重低音がよく響いてくるような音の鳴り方です。ですから、吉本さんの「語り」は、頭に響くというよりは、どこか、腹ワタに滲(し)みてくるような感じがします。そんな感覚が伴うのです。超一流のプロボクサーの「ボディ・ブロー」のように、ジワジワと効いてくるのです。

 小林秀雄氏、吉本隆明さん。両氏の「文体」や「語り」には、確かに大きな違いがあります。ですが、共に、とても魅力的です。他人を引き寄せる力があります。


 「心を開いて」学ぶべき

  先人たちの叡智(えいち)


 私は、学生時代、一番熱心に読んだのは、小林秀雄氏の著作でした。私が買った初めての全集本は、内外含めて、小林秀雄氏のそれでした。同時に、翻訳家としての小林秀雄氏の文章の格調の高さにも驚かされました。

 小林秀雄氏が訳された『ランボオ詩集』(東京創元社 1972年発行)——その中の、なかんずく、ランボオの『地獄の季節』の翻訳には衝撃を受けました。まさに、名訳だと思いました。文章が人を酔わせる力といいましょうか、人を引きずり込む力といいましょうか。

 また、小林秀雄氏が愛読されたベルグソンの著作も、私は熱心に読みました。光が差し込むかのようなベルグソン哲学に、感動を覚え、そのものの見方、思想に驚嘆する思いでした。ベルグソンの一連の著作は、まさに「天才の作品である」、そう思いました。

 私が東北大学工学部建築学科に入ったのは1971年(昭和46年)、18歳のときでした。当時の風潮としては、実存主義が時代の潮流でした。

 大学内には「実存主義研究会」というのがすでにあって、その研究会にあてがわれた、専用の小さな部室のような部屋もありました。私もその部屋に出入りするうちに、自然と親しく付き合うことになる何人かの学生仲間、親友ができたりもしました。

 で、勢いというべきか、私もまた、サルトルの『実存主義とは何か』『存在と無』といった思想書、哲学書や、サルトルの『嘔吐』といった小説、ハイデガーの『存在と時間』などのむずかしい哲学書を、けっこう読みあさることになったという次第です。

 また、当時、「実存主義の祖(そ)」とみなされたりもしていたキルケゴールの一連の著作も、熱心に読みました。キルケゴールの著作『不安の概念』『死に至る病』『あれか、これか:ある人生の断片』など、吸い込まれるかのように読んだ記憶があります。そして、キリスト者にして、「単独者」にほかならない、このデンマークの哲学者の思索の「深さ」や、孤独の「深さ」に驚かされました。

 キルケゴールの「あれか、これか」は、キルケゴールが批判の対象とした “ 西洋哲学の巨人”——体系的な哲学を構築したとして知られる、かのヘーゲルの「あれも、これも」の弁証法に、真っ向から異を唱えるものであり、キルケゴールに惹(ひ)かれていた私は、「あれか、これか」という言葉を、それとなく、無意識に口ずさんだりもしていました。

 また、古代ギリシャの哲学者プラトンの著作にも、大いに惹(か)れました。そこに登場するソクラテスの言論の巧みさには、眩暈(げんうん)される思いがしました。学生時代の貧乏、懐(ふところ)の寂しさは、いうまでもありませんが、なけなしの小遣(こづか)いをはたいて、プラトン全集を買ったりもしていました。

 小説家でいえば、実存主義の潮流の中で、カミュの『異邦人』、カフカの『変身』『城』『日記』などを読み、「不条理」という言葉が、頭に強く残りました。仲間うちでは、口にこそ出さなものの、「不条理」という言葉が、共有されていたと思います。

 もちろん、実存主義ということにかかわらず、他の思想書や文学作品なども、けっこう読みあさりました。特に、ドストエフスキーの一連の小説『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などには、驚嘆(きょうたん)させられる思いがしました。魂が心の底からゆさぶられる、そんな思いがしました。

 小林秀雄氏は、ドストエフスキーの作品を「巨大な山脈」というふうに呼んでおられたと記憶しますが、まさにドストエフスキーの小説は、「巨大な山脈」でした。小説ということでいえば、学生時代、私が一番熱心に読んだのはドストエフスキーの小説です。

 一方、国内に目を転じれば、文学、思想という観点から見ると、私が熱心に読んだのは、小林秀雄氏の著作のほかは、吉本隆明さんや埴谷雄高さんなどの著作でした。

 埴谷雄高さんの『死霊』なども、熱心に読んだ本の一冊です。小林秀雄氏とはまったく違う出発点、方向性で、埴谷雄高さんは文学に臨んでおられました。稀有(けう)な「思考実験」といいましょうか。

 また、吉本隆明さんの本も、熱心に読みました。私が大学に入った時代は、まだ学生運動の名残があった時代ですから、その理論的支柱の代表格と目されていた吉本隆明さんの著作は、どこか“ 必読の書 ” といった趣(おもむき)がありました。時代情況や、「現在」というものを読み解く上で、欠かせない著作である、そんなふうに思われていたのです。

 そんな雰囲気ではありましたが、左翼、右翼、保守といった党派性、そんなレッテル貼りなど、私には、はなから興味がありませんでした。思想家、文学者として、小林秀雄氏、埴谷雄高さん、吉本隆明さん、といった人たちの著作は、いずれも興味をそそられたのです。面白かったのです。

 学生だった若造の私からしても、この人たちは、掛け値なしに「本当の作家」「本当の文学者」「本当の言論人」である——つまり、「本物」である、と思われたのです。

 違いは違いとして、「本物」の手になる著作には、やはり、時代を経ても朽ちないものがあります。惹(ひ)かれるものがあります。「本物」だけにある魅力、とでもいいましょうか。

 結果的にいえば、当時から50年前後経ち、年齢的に、老いが身近に感じられるようになった今——70代に突入した今もなお、その見方は変わっていません。その意味では、自分の「直観力」に間違いはなかった、と思っています。

 特に、吉本隆明さんについては、150時間以上にも及ぶロング・インタビューをさせていただく機会を得て、吉本さんの人柄や、思想家としてのスケールの大きさを、まさに間近(まじか)に、直接、実感させてもらうことができました。

 世には、左翼、右翼、保守など、それぞれの立場から、自分の主義主張に合わないことは認めない、という色メガネを持った人たちが、少なからずいます。私は、そうした見方が好きではありません。また、そうした見方は、けっしてしません。

 左翼であれ、右翼であれ、保守であれ、「いいものはいい」、という見方をすることを心がけるようにしています。それは、どれだけ人間に近づいて、ものを考えられるか、ということにつながっていることだと思います。「本物」は、いつの世でも、「本物」なのです。

 文学者であれ、思想家であれ、「本物」と思われる人たちの、ものの見方、考え方には、「徹底したもの」があります。時流、つまり時代の風潮ということだけは、けっして押し流されない、消え去ることのない「精神の輝き」があります。

 私たちは、それこそ、「心を開いて」、優れた先人たちの叡智(えいち)に学ぶべきではないでしょうか。

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