◼︎右:吉本隆明氏 左:田近伸和
『超「戦争論」上・下』
アスコム / 撮影:塔下智士氏
2002年初版発行
吉本隆明さんへのインタビュー本
吉本隆明さんとは、ご縁があって、ご一緒に本を上梓させていただきました。私が聞き手となって、吉本さんにお答えいただくというインタビュー本です。
『私の「戦争論」』(ぶんか社 1999年発行)、『超「20世紀論」 上・下』(アスキー 2000年発行)、『 超「戦争論」 上・下』(アスキー 2002年発行)という本がそうです。
ちなみに、『私の「戦争論」』は、その後、筑摩書房から「ちくま文庫」として文庫化(2002年 発行)され、出版され直しました。なお、『私の「戦争論」』は、雑誌「ペントハウス」(ぶんか社)で、2年以上にわたって連載していた「世紀末 吉本亭」というインタビュー記事の、いわば、そのスペシャル版ということで、新たにインタビューを重ね、刊行されたものです。
吉本さんは1924年のお生まれですから、私がインタビューさせていただいた時、吉本さんは、70代半ばから70代後半に差しかかっておられました。吉本さんは、残念ながら、2012年にお亡くなりになりましたが、常々、「死は不定である」という親鸞(しんらん)の言葉を引き合いに出しておられました。
ですから、ご自身がいざ死に臨んで、どのような形で死を迎えられたのか、まさに「死は不定である」ということを、身を以て体験されたのかどうか。それは、はたからは誰もわかりません。
もっとも、『論理哲学論考』などの著作で、天才と呼ばれた哲学者のウィトゲンシュタイン(1889年〜1951年)によれば、「死はこの世の出来事にあらず」「人は死を体験しない」そうですから、死は、誰にとっても謎のままである、といえば、まさにその通りなのですが。
「ペントハウス」に
吉本さんを登場させる企画
さて、私が、東京都文京区本駒込にある吉本さんのお宅を、長年の知り合いの編集者の人と一緒に、初めてお訪ねしたのは1999年6月のことでした。
ちょうど、その頃は、少年が少年によって殺害された殺人事件、のちにいう、<酒鬼薔薇(さかきばら)事件>なるものが起きていて、マスコミが「異常事件」として騒いでいた時期でした。ただし、まだ、その時は犯人像が明らかになっていない時期でしたが。
また、世の中全体を見渡すと、長引く不況に加え、オウム真理教の地下鉄サリン事件や阪神大震災などの後遺症の影響で、捌(は)け口のない、得体の知れない不安と疲労感が充満し、鬱屈(うっくつ)した気分が漂っていた時期でもありました。
マスコミの紋切り型報道、薄っぺらな表層的な報道ぶりは、今に始まったわけではありませんが、そうした事件や出来事に対するマスコミ報道に飽きたりなさとウンザリ感を、私はずっと抱いていました。折しも、その頃、長年の知り合いの編集者の人が、「ペントハウス」という雑誌の担当をすることになったので、何かいい企画はないか、と私に相談をもちかけてきたのです。そこで、私が口に出したのが、「思想家・吉本隆明」という名前だった、というわけです。
吉本さんの著作は、学生時代から割合よく読んでいて、吉本さんが難解な思想書を書いておられる一方、読みやすく、平たい言葉で、事件や時事的な出来事などについて論評されていることも知っていました。その論評が、とても面白かったのです。
また、知識人、有名人といえども、実名でバッサバッサと切り捨てていく、その斬り捨て方なども、実に歯切れよく、あざやかで、爽快感すら覚えました。しかも、重たくて深い思想を、背後に潜めながらです。
それで、ヌード主体の若者向け雑誌「ペントハウス」とはいえ、いや、それだからこそ、吉本隆明さんを雑誌に登場していただいたら面白い企画になるのではないか、と提案したというわけです。吉本さんのお宅をお訪ねしたのは、そうした経緯からです。
吉本隆明さんにお会いするのは、もちろん、その時が最初ですが、実をいうと、以前に一度、吉本さんのお姿をお見かけしたことがあります。私が東北大学工学部建築学科の学生だった頃です。埴谷雄高さんの形而上学的小説『死霊』の新しい章、第五章が完成したということで、それを記念して、吉本さんが東北大学の川内(かわうち)校舎というところで講演されたのです。1976年(昭和51年)のことです。
壇上に立たれた吉本さんは、会場を特に見渡すというのでもなく、絶えず上のほうを注視されながら、内面の声に耳を傾けるかのように、『死霊』第五章のことや、『死霊』の文学的意味合い、思想的意味合いなどを語っておられたように思います。昔のことで、内容はよく覚えていませんが、「これが、あの有名な吉本隆明か」と、内心、密かにつぶやきながら、私は講演を末席から聞いていました。
当時、学生運動は下火になりつつあったとはいえ、大学の構内ではアジ用の立て看板があったり、学生によるストライキがあって授業が行われなかったりして、まだ学内が騒いでいた頃でした。そうした中、全学連のシンパの一人とみなされ、学生運動の理論的支柱の代表格とみなされていた吉本隆明さんの名は、学生たちの間で有名だったのです。
私はといえば、学生運動には加わりませんでしたが、学生仲間と一緒に「実存主義研究」というのをやっていました。その頃は、実存主義が時代の潮流で、その理論的支柱としてサルトルなどがよく読まれていました。
また、小説『異邦人』で有名なフランスの作家カミュなども、よく読まれたりしていました。大学内には、「カミュ研究会」という研究会もあって、私はそこにしばしば出入りしたりもしていました。もっとも、サルトルとカミュは、結局、思想上の問題から、喧嘩別れというふうになってしまいましたが。
吉本さんとのあざやかな出会い
さて、吉本さん宅に話を戻します。まずは、「ペントハウス」でのインタビュー連載という企画を、吉本さんが承諾してくださるどうかの、いわゆる企画交渉です。世紀末を象徴するような事件や出来事などについて、私のほうから質問をぶつける形で、吉本さんに独自の思想的観点から、読み解いてもらおうというものです。
通されたのは、庭に面した、奥の畳敷きの応接部屋です。和室です。長テーブルがあり、座布団が用意されていました。脇にあった丈の低い棚の上にはテレビが置かれてあり、棚のガラスの中には阪神タイガースの優勝時と思われるビデオなどが置いてありました。
そうした趣(おもむき)に、どこかホッとした気にもなりましたが、正直言って、私は、内心、不安でした。また、それなりに緊張もしました。吉本さんがお書きになった重厚な思想書——著作から受ける吉本さんのイメージは、まさしく、「戦後思想界の巨人」というイメージだったからです。
しかし、それは杞憂(きゆう)であることが、すぐに判明しました。吉本さんは、小さなメモ帳を持って、いかにも自然体という様子で部屋に入って来られました。二言、三言、挨拶を交わすうちに、不謹慎な言い方かもしれませんが、私は旧知の人に会ったような、くだけた、安心した気分になったからです。
それほど、吉本さんの態度が、気さくで、心配りがある親和的なものだったのです。文章では、あれだけラジカルな言説を吐く人なのに、話ぶりは謙虚そのものというか、自己相対化がピシッとなされていて、知識人ぶるなどというところがまったくないのです。
こちらの意図や問題意識などを説明すると、吉本さんは、即座に、目の前のテーブルの上に置いた、開いた小さなメモ帳をパタンと閉じ、二つ返事で企画を了承してくださったのです。しかも、吉本さんから「こうして欲しい」という注文は、一切、ありません。その決断の速さ、思い切りのよさに、正直言って、ビックリしました。
私は、念のため、「時事的な事件や出来事などを毎回取り上げますが、何を取り上げるか、こちらのほうでテーマを決めた段階で、事前にお知らせしましょうか?」と尋ねました。すると、吉本さんは即座に、「いや、その必要はありません。おいでになった時に、その場で質問してくだされば、お答えします。僕は、その場でお答えできるくらいには、普段から、いろいろウオッチしているつもりですから」と、静かな口調ながらキッパリと言い切られたのです。
その言葉に私は熱くなりました。胸の高まりを覚えました。普通なら、「事前に論じるテーマを知らせてください」「出来たら、関連データも事前に送ってください」というところです。慎重な答え方をしようとするなら、普通はそうするでしょう。
でも、吉本さんの答えは、そうではありませんでした。潔いというか、思い切りがよいというか、明快でした。常に臆するところなく、一貫してラジカルな言説を吐き続ける「思想家・吉本隆明」という人の一旦を垣間見た気すらしました。
「実感に即して」ものをいう
徹底した姿勢
それで、いよいよ吉本宅でのインタビューが始まりました。1回につき、約5〜6時間、最終的には、累計150時間以上もの長丁場となりました。あとから振り返れば、結局、ギネスもののような、ロングインタビューとなったわけです。それも、いうなれば、かぶりつきのような状態で、私は、直接、お話をうかがったことになります。
大学の講義などは、ものの10分もすれば眠くなってしまい、私はまともに聴いた記憶がありませんが、吉本さんへのインタビューでは、のめり込むような思いで聴かせていただきました。いや、聴き惚れた、と言ったほうが正確でしょう。
それほど、吉本さんの語は面白かったのです。ついぞ、ほかでは聴いたことのない話ばかり。ラジカルで、独創的、まさしくオリジナリティがあったのです。マスコミでよく登場する、いわゆる知識人、コメンテーター、学者などからは、絶対に聴けない類(たぐい)の話の連続でした。
吉本さんは、当時、先にも述べましたが、70代半ばから70代後半のご年齢でした。しかし、そのご年齢をツユとも感じさせないほど、精力的にお話をされました。毎回、5〜6時間、ぶっ通しで、お話になりました。疲労から、最後は声が枯れ、目の下には黒いクマができたりもされていました。
それでも、こちらから、「今日は、このあたりで」と切り上げない限り、吉本さんは話し続けられるのです。お話をやめないのです。それは、サービス精神といえば、そうもいえるかもしれませんが、私がそこに感じたのは、やはり、思想家としての決意、覚悟、凄(すご)みであり、あくなき探求心というものでした。
吉本さんが築かれた「思想の山脈」は巨大です。その「思想の全体像」を語ることは、容易ではなく、それについては、私はその任にあらずというか、もっとふさわしい、その道の専門家、「知」の専門家がいるのではないかと思っています。
ですから、ここでは、それについては、詳しくは述べません。自分の断片的な知識で、お茶をにごすようなことはしたくないからです。
私がここで語りえることは、インタビューを通し、これだけは確実にいえる、ということだけです。それは、吉本さんが、思想を築く際、何を根拠に、どこから出発されているかということです。
150時間を超えるインタビューを通し、吉本さんから何度も繰り返し出た言葉は、「実感に即していえば」という言葉でした。必ず、そこを踏まえるというか、そこに立ち返ってくる。「実感に即していわない言説は、すべてダメであり、すべてウソになってしまう」というのが、「思想家・吉本隆明」のゆるぎない信条であり、鉄則でした。そこには、徹底的なものがありました。
それは、言葉を換えれば、「実感に即していわない言説はすべて自己欺瞞に陥るだけだ」という厳しい戒めが、ご自身に対してあったからだと思います。それが、まさに、吉本隆明という思想家の出発点であり、言説のゆるぎない基盤でした。知ったかぶりをして、キレイ事をいうマスコミ的知識人や学者を、吉本さんが、よく「バカ」と呼んでおられたのは、これがあったがためです。
もっとも、吉本さんご自身は、「僕なんかも、他人の悪口をいわずにいられない、というところがありますからね。今、足腰が痛いのは、僕に悪口をいわれた人たちの恨みつらみのせいじゃないか、と思っているくらいです」と、いささか自戒も込めて、冗談半分にいっておられたりもしましたが。
また、「埴谷雄高からは、会うたびに『君、他人のことをバカ呼ばわりするのは、よしたほうがいいぞ』っていわれたりもしました。面と向かって、そういわれると、『すいません』とかいって。僕はお茶をにごしていましたけどね」、ともおっしゃっておられました。
そして、ご自身のことを自己分析して、こうも語っておられました。
「他人の悪口をいわなきゃ収まりがつかないというのは、要するに、育ちが悪いってことですよ。育ちが悪いっていうのは、別に経済的に貧乏である、ということじゃありません。偏頗(へんぱ)な育ち方をしたっていうか、要するに、偏(かたよ)った育ち方をしたんじゃないかと思います。僕の精神的病理的な知識からすると、間違いなく、そういう理屈になります。」
インタビュー後に湧く
「静かな感動」
とはいうものの、実際にお会いした吉本さんの印象は、その言説の激しさ、ラジカルさとは逆に、謙虚そのものというか、知識人ぶるなどというところが、まるでありませんでした。自然体というか、こちらがインタビューという仕事で来たということを忘れるくらい、肩の力が抜けていきました。吉本さんのふるまいが、それほど気配りのある、親和的なものだったからです。
吉本さんは、インタビューの中で、「僕は自己相対化ができていない人というはイヤなんです」と語っておられました。吉本さんの知識人ぶらない謙虚さは、まさに自己相対化がピシッとなされた人物のそれであったと思います。
それはまた、常に、一般の人たち、つまり大衆を「繰り(くり)んで」ものを考える、考えなければいけない、という「思想家・吉本隆明」の思想の表れだったのかもしれません。吉本さんは「繰り込み」という言い方をされていました。
吉本さんは、かつて学生運動が華やかりし1960年代、共産党などの党派的な左翼とは一線を画す意味で、「独立左翼」を自称されていました。その「独立左翼」としての「徹底したもの」が、そこにはあったのではないかと思います。
毎回、インタビューは、5〜6時間、本当に長時間に及びました。休憩もせず、ぶっ通しで、それを行うわけですから、精神的にも、肉体的にも、吉本さんの疲労は相当なものだったはずです。
思い起こせば、いつぞや、吉本さんご自身が、伊豆の海で事故に遭(あ)うという一件がありました。吉本さんが、伊豆の海で泳いでいて、溺(おぼ)れかけ、「土左衛門になるかもしれない」と、インタビュー中にも、おっしゃっていた一件です。
その影響もあってか、ご壮健時に比べ、歩行がいくぶんままならないご様子で、外を歩かれる時などは杖をお使いになっておられるにもかかわらず、インタビューが終わると、必ず玄関口まで出てこられ、「ご苦労さまでした」といって、私たちを見送ってくださった吉本さんのお姿が、目に浮かびます。
「私たち」と申しましたのは、吉本宅でのインタビューの際には、先に少し触れた、懇意(こんい)にしている編集者の人や、テープ起こししてくださる人などが、常に同席していたからです。
午後の2時頃から始まるインタビューが終わるのは、決まって陽が落ち始めるか、陽が落ちてしまった感のある夕暮れ時。吉本宅を離れる帰り道、誰もあえて口には出しませんでしたが、「静かな感動」が私たちを包んでいました。
「思想家・吉本隆明」という人の「思想」はもとより、その「人柄」が醸(かも)し出す、いわくいいがたい “ 波動 ” が、私たちに伝搬(でんぱん)していたからです。
今、改めて吉本さんとご一緒させていただいたインタビュー本を読み直すと、当時のことが、走馬灯のように思い出されてきます。そして、直面しなければならないのは、吉本さんがお亡くなりになったという事実です。まさに、「巨星墜つ」の感があります。
吉本隆明さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
コメント